アクトランドのひみつ【第10回】狩野探幽の贋作事件

絵金作品

絵金が下野するきっかけとなったとされる「狩野探幽の贋作事件」。絵金が町絵師となった発端であるとともに、その画力が改めて評価された事件でもあります。その顛末をご紹介します。

狩野探幽の贋作事件

1844年(弘化元年)、骨董商の中村屋幸吉が、絵金に狩野探幽の「蘆雁図」双幅の模写を依頼する。狩野派で学んだ絵金は、この依頼を快く引き受け、腕をふるって描いた。ところが、中村屋幸吉によって探幽の落款が押され売りに出された。それを購入する側は、諸芸に通じている文人 壬生水石に鑑定を依頼した。壬生は篆刻の大家でもあり、その落款から、すぐに贋作であることを見抜いた。そして、その作品の出来のすばらしさから、「金蔵、見事に仕成りたり」と、絵金の作であると判断した。

その後、絵金は贋作の制作に関わったとされ、御用絵師の仕事を奪われ、城下を追放され野に下った。この事件の翌年には「弘瀬洞意筆」の絵手本が存在していることや、二年後の1846年に洞意筆で絵馬「神馬図」(高知市一宮土佐神社)を奉納していることから、諸説あるが、大きな咎は受けていないと思われる。

狩野派

日本絵画史上最大の画派である。室町時代中期から江戸時代末期まで400年にわたり常に画壇の中心であった。室町時代8代将軍足利義政に仕えた狩野正信を始祖とし、その嫡男 狩野元信、そして乱世を生き抜いた権力者 織田信長や豊臣秀吉に仕え安土城や大阪城の障壁画を制作した狩野永徳、永徳の孫で京都から江戸へ本拠地を移して江戸城や二条城などの障壁画の制作指揮をした狩野探幽、京都に留まり「京狩野」と呼ばれた一派を代表する狩野山楽らを輩出した。

近世以来の画家の多くが狩野派の影響を受け、狩野派の影響から出発している。絵金も江戸に出て狩野派を学び、帰国してしばらく狩野派御用絵師として土佐藩家老桐間家に仕えている。