大野充彦『龍馬の小箱』(1)
龍馬と遊ぶ土佐の歴史 ―薩長同盟をめぐって―


講演日時: 2013年3月23日(土) 午後2時~3時30分
講演場所: 高知市針木東団地公民館

主な内容

私が現在、顧問をしている「アクトランド」は、かつての龍馬歴史館(香南市野市町)の視聴覚装置を拡充させるなど、そのリニューアル化をすすめる一方、商家の軒先を模して絵金関係の絵画を展示する絵金館、各種イベントの会場としての野外ステージなども新設する総合エンターテイメント施設。今年上期にオープン予定です。

龍馬の人気は、当時にとって新時代だった「海の時代」を切り開いた中心人物であったこと、長崎で撮った写真の風貌が他者を圧倒するまでに魅力的であること、従来の「藩」の枠を超えて活躍した「自由人」の側面を有していたこと、犬猿の仲であった薩長の仲介役をみごとに果たし、明治維新に貢献したこと、志半ばで暗殺された悲劇の人物だということ等々、いくつもの要素がない交ぜになり、いまだに衰えを見せません。

龍馬が剣術修業のため江戸に赴いた年、ペリーがやってきます。この例のように、龍馬は、時代の画期とおもわれる動きがあった時、その現場か、あるいはその付近に居合わせた、という例が実に多くあります。時代の寵児、と言うにふさわしい人物です。

長州や薩摩が龍馬に急接近しはじめたのは、元治元年(1864)6月の池田屋事件後です。新撰組が池田屋事件で名を馳せたのは、長州、肥後、土佐などの尊攘派約30名を襲撃し、公武合体派の延命に一定度の役割を演じたからですが、有能な尊攘派が何名も凶刃に倒れたため、「自由人」龍馬に対する期待感が高まったのです。

世に薩長同盟と呼ばれているものは、龍馬に宛てた桂小五郎の手紙の中に書かれています。長さが数メートルもある桂小五郎の手紙の、真ん中ほどに、6ヵ条にまとめられています。

桂小五郎がまとめあげた6ヵ条(薩長同盟)を口語訳しますと、次のようになります。

  • 1. 戦争になれば、2000名の兵を上方に集め、今いる兵と合流させて上方を固めること
  • 2. もし勝ち戦の望みが出てきたら、朝廷に申し上げ、きっと「尽力」すること
  • 3. 万一、負け戦になりそうになっても、半年や1年ぐらいで壊滅することはないから、その間に必ず「尽力」すること
  • 4. 幕府軍がこのまま江戸に引き上げたら、朝廷に申し上げ、すぐに「冤罪」が晴れるように必ず「尽力」すること
  • 5. 兵士を集結しても、一橋、会津、桑名などの勢力が今のように朝廷を擁し、「尽力」の道を遮るようならば、決戦におよぶほかない
  • 6. 「冤罪」が晴れたら、薩長がいっしょになって「皇国」のために「尽力」することはいうまでもないが、今日からは天皇家の威光回復をめざし、必ず「尽力」すること

6ヵ条(薩長同盟)には何度も「尽力」という言葉が使われています。ただ、第2条や第3条では「尽力」の内容がはっきりしません。第4条、第5条、第6条と読み進めると、桂小五郎が書き記した「尽力」は、直接的には長州の「冤罪」を晴らすため、広義には「皇国」のため、と解釈できます。

第3条には、負け戦になりそうになっても、半年や1年ぐらいで壊滅することはない、と書かれています。この自信、すごいと思いませんか?でも、自信たっぷりの長州が「冤罪」にこだわっています。6ヵ条(薩長同盟)の特徴のひとつがここにあります。「冤罪」とは、元治元年、西暦では1864年の6月に起きた「禁門の変」以降、長州藩が朝敵の汚名を着せられたことを意味しています。桂小五郎がまとめあげたものですから、当然といえば当然なのですが、6ヵ条(薩長同盟)の主体は長州にあります。6ヵ条(薩長同盟)をごく簡単に要約すれば、長州の「冤罪」を晴らすため、「皇国」のため、長州と薩摩が協力し、公武合体派との決戦も辞さない、ということになります。

いままで私は、「薩長同盟」という言葉を使ってきましたが、今日の話でご理解いただけたように、この6ヵ条は軍事同盟というほどの内容ではありませんから、いまでは「薩長盟約」と呼ぶのが一般的になっています。

龍馬は、この6ヵ条が書かれた部分の真裏に朱筆で裏書きをしています。桂小五郎が書いたものは、今でいう手紙ですから、1月23日と書かれているだけで、年号はありません。しかし、龍馬の裏書きには、「丙寅 二月五日」と書かれています。龍馬は、丙寅つまり慶応2年、と書いたのです。手紙という私的なものが龍馬の裏書きによって公的なものになった、と私はこの点を重視しています。

薩長の会談は慶応2年1月21日でした。桂小五郎はこの会談後、長州に帰る用事があったため、急いで大坂に向かいました。ですから、24日午前3時頃に起こった寺田屋事件、つまり龍馬が襲撃された、という事件を知りませんでした。もしも龍馬が寺田屋で暗殺されていたら、薩長の秘密会談の内容はどんな形で現在に伝わったか、龍馬人気はどうなっていたか、いろんなことを想像し、それはそれで楽しいと思います。

龍馬の裏書きは、再度申しますが、2月5日のことで、秘密会談からは10日以上の時間が経過しています。龍馬はその間、京都の薩摩藩邸で傷の養生をしますが、養生をしつつも彼は桂小五郎から依頼されたように、薩摩の首脳部が6ヵ条を最大限尊重するよう、何度も「だめ押し」をしたのだろうと思います。龍馬は薩摩藩邸に滞在中、お龍さんを正式な妻とします。そして、その後、2人は薩摩のはからいで、九州へと「新婚旅行」に出かけます。2人の旅立ちに触れたところで今日の話を終わらせてもらいます。