大野充彦『龍馬の小箱』(4)
幕末の偽文書(ぎもんじょ)


「文書」という用語は現代でも使われていますが、「公文書」とか「私文書」といった例のように、「文書」は「ぶんしょ」と読みます。でも、歴史上のものは、「もんじょ」と読むことで、現代のものと区別します。今回紹介するものは、「もんじょ」ですが、本物ではなく、偽物(にせもの)です。2枚1セットの偽文書(ぎもんじょ)です。

2枚のうちのひとつ、「上詞」と題されたものを、句読点を付して引用します。



  • 上詞

  • 長門(ながと)産風者 高杉晋作(たかすぎしんさく)
  • 筑前(ちくぜん)産風者 平野次郎(ひらのじろう)
  • 薩摩(さつま)産風者 西郷吉之助(さいごうきちのすけ)

  • 一、 右之輩大曲事(おおくせごと)有之、公儀御手入之為、
  • 隠密捕立方(とりたてかた)、申付候者也。

  • 安政(あんせい)四年丁巳(ていし)葉月上酉日(かみのとりのひ)
  • 老中(ろうじゅう)刑部大輔(ぎょうぶたゆう)少納言(しょうなごん)
  • 従五位下(じゅごいげ)松平阿波守(まつだいらあわのかみ)  (花押/かおう)

  • ほ組三番
  • 小倉伴(カ)多
  •         へ

「上詞」という題の次に書かれた3名はあまりにも有名です。高杉晋作は長州藩・奇兵隊(きへいたい)生みの親ですし、平野次郎(国臣/くにおみ)は「生野(いくの)の変」(尊攘派が討幕をめざして挙兵した事件)に参加したことで知られています。西郷吉之助(隆盛/たかもり)は説明するまでもない明治の元勲(げんくん)です。この3名のうち、もっとも早く死ぬのは平野です。元治(げんじ)元年(1864)7月、新撰組によって処刑されます。ですから、この「上詞」という題の文書は、元治元年以前に作られた、ということになります。この資料はすでに偽文書と断じましたが、処刑後の人間を持ち出すことは、妙な言い方ですが偽文書の作成者にしては自殺行為です。嘘を見破られる「ヘマ」はしないはずです。というわけで、この資料は元治元年以前に作成された、と推測しておきます。

適訳ではありませんが、本文を私なりに現代語に訳してみますと、「右の3名は大変な悪事を働いている。幕府の捜査のため、こっそり捕まえることを申し付けるものである」となります。このお触れ(指令)に書かれた年月日の安政4年は西暦1857年、丁巳(ていし/ひのとのみ)はその年の干支、葉月は8月のこと、上酉日(かみのとりのひ)というのは1か月を十二支で数えた表記で、10日のことです。ですから、分かりやすく書き直すと、安政4年8月10日となります。

旧暦の安政4年8月10日という日の前後を詳しい年表で調べても、あまり大きな事件は起こっていません。平野が安政の大獄(たいごく)で潜行したり、西郷が同じ頃、僧月照(げっしょう)とともに入水(じゅすい)した話はよく知られていますが、安政の大獄がはじまるのは安政5年からです。高杉にとっての安政4年は、松下村塾(しょうかそんじゅく)入塾の年にすぎません。安政4年8月10日の段階で、3名が一括されて指名手配されるはずはないのです。

「上詞」と書かれた資料の左上部には、将軍家の紋所(もんどころ)として知られている「葵(あおい)の紋」が朱色で印刷されています。私はこのような文書を見たことがありません。この資料で決定的と思われる問題点は「松平阿波守(まつだいらあわのかみ)」です。松平阿波守は普通、徳島の蜂須賀(はちすか)氏を指します。蜂須賀氏は土佐の山内氏と同様、外様(とざま)大名です。江戸幕府の老中には譜代大名が就任するのが一般的ですから、「松平阿波守」が老中だとするこの資料を見ると、首を傾げたくなるのです。念のために、私がかつて採集した歴代老中の花押(かおう/一種のサイン)をすべて調べてみましたが、「松平阿波守」の花押は確認できませんでした。

土佐山内家の宝物資料館には厖大(ぼうだい)な資料が収蔵されています。その中に1000点ほどの老中奉書(ろうじゅうほうしょ)の原本や写があります。昭和62年度から文化庁の国庫補助を得て実施された調査の折、調査員のひとりであった私は、老中奉書の原本から老中の花押をすべて採集しました。その花押一覧表は、平成3年刊行の『土佐藩主山内家歴代資料目録』の巻末に掲載されています。「松平阿波守」が出した老中奉書も、その花押も、まったく確認できないのですから、「松平阿波守」という老中は実在の人物ではないのです。

「上詞」という書き出しで始まる資料は偽文書なのです。でも、この資料は手書きではなく、印刷物です。木版刷りなのです。版画浮世絵のように、桜や桂など硬質の木に彫って、墨を塗った木面の上に和紙を当て、竹製の本馬楝(ほんばれん)でこすって刷ったものです。偽物をつくりだすのに、かなりの労力を費やしたようです。印刷物ですから、何枚も刷って配布したと思われます。

宛名に「ほ組」とありますが、何を指しているのでしょうか。すぐ思いつくのは「町火消し(まちびけし)」です。仮にそうだとすると、あの有名な大岡越前(おおおかえちぜん)が設置した「町火消し」の、そのひとつだった「ほ組」は浅草を担当していたようですから、この偽文書は江戸の下町に流布させるためのもの、との推測も可能です。

いままで長々と説明してきました資料は、2枚で1セットです。もう1枚の資料は、「人相覚(にんそうおぼえ)」と題され、平野、高杉、西郷の順で似顔絵が印刷されています。「上詞」と題されたものは、高杉、平野、西郷の順で氏名が書かれていました。些細なことですが、順序が一致していません。似顔絵の方は死亡した順になっていますし、西郷の顔だけが実物と良く似ています。ひょっとすると、この資料は明治になって作られた可能性もあります。

偽文書は、その成立事情や背景がよく分かりません。でも、分からないからこそ、いろいろ想像して楽しむことができます。アクトランドでは、このような楽しい資料も集め、さまざまな角度から歴史に新しい光を当てようとしています。作成者は、尊攘派に恨みを抱く人だったかもしれませんし、遊び心を持った人だった、とも考えられます。誰かに咎(とが)められる時のことを考えたのか、あるいは偽物とすぐ判断できるように、わざと実在しない老中の名を使ったり、安政4年という、幕府が3名を指名手配するはずのない時期を設定したのかもしれません。興味が尽きない資料です。