大野充彦『龍馬の小箱』(5)
天保山(てんぽうざん)


愛媛県の西条市と久万高原町の境界に位置する石鎚山(いしづちさん)は、標高が1982mあります。西日本の最高峰です。いっぽう、大阪の天保山(てんぽうざん)は標高がわずか4.5m。ビルの2階ほどの高さしかありません。

現在、天保山といえば、高さが112.5mもある大観覧車や、海遊館、ユニバーサルスタジオなどが近くにあることで有名です。日本一低い山と言われていますが、山頂に設置されているプレートには「天保山山岳会」という名称が刻まれています。ネット検索しましたら、一度も遭難救助要請を受けたことがない、とのこと。山頂までの登山道は階段状になっています。登山証明書は10円で発行されているようです。それには次のように書かれています。

  • あなたは海抜4.5米の日本一低い山・天保山の頂上をきわめました。
  • よって、その快挙を称え、あなたを「いちびり精神」の持ち主であることを証明します。

高知市を流れる鏡川(かがみがわ)は、江戸時代には南川(みなみがわ)と呼ばれたこともありますが、そう呼ばれたのは高知城下の南の外堀を兼ねていたからなのです。その鏡川の北岸(詳しく述べれば、天神橋の北詰から200mほど西に位置する小さな公園内)には、かつて「UFO着陸予定地」というプレートがありました。ただ、公園が整備された時でしょうか、「UFO着陸予定地」プレートは撤去されたようで、いま見ることはできません。私は「UFO着陸予定地」というプレートが気に入っていましたから、残念でなりません。皆さん、このような「遊び心」、癒されますよね。

天保山は、安治川(あじがわ)、木津川(きづがわ)という、ともに淀川(よどがわ)の分流の、その河口近くの浚渫(しゅんせつ)工事によってできた人工の小山です。川底に堆積した土砂を取り除き、その土砂を盛ってできた山が天保山です。

工事がおこなわれたのが天保2年(1831)でしたから、その名があるのです。これはまったくの偶然の一致にすぎませんが、同じ年、土佐藩は江ノ口川(えのくちがわ)の浚渫工事をおこなっています。なお、龍馬が生まれたのは天保6年です。

幕末維新史で天保山の名が出てくるのは、慶応4年(1868)1月15日のことです。鳥羽伏見の戦いで敗れた旧幕府軍の兵士は、ここから大阪湾に停泊していた船に乗り、江戸に引き上げていったのです。兵士を乗せた船のひとつに「富士山丸」という名の船がありました。この船はのち、明治新政府に移管されるのですが、日本一低い山の近くから、日本一高い山の名がついた船が出航したのです。面白いといえば面白い話です。

徳川慶喜(とくがわよしのぶ)という人物はいまだに評価が一定しませんが、当時にあっては「英明」との評判が高かったことは事実です。その慶喜が山内容堂(やまうちようどう)の建白書(けんぱくしょ)に従い、大政奉還を朝廷に願い出ます。政権を返上することで、自らの土地所有権や軍事指揮権を保持しようと考えていたのでしょう。しかし、薩長や岩倉具視(いわくらともみ)らの反幕府勢力は、慶喜の政略を見抜いていたのか、結局は武力討幕の道が選ばれます。

大阪で大規模な戦争が起こっても不思議でない状況でしたが、鳥羽伏見の戦いに敗れた徳川慶喜は、「恭順の意」を示そうとしたのか、夜中ひそかに江戸へ向かいます。大阪城に集結していた旧幕府軍は、総大将が忽然と消えたわけですから、唖然としたことでしょう。

天保山は、混迷した旧幕府軍をどのように見ていたのか、興味は尽きません。大型船の入港のため、大阪湾の大規模な整備工事がおこなわれるのは明治後期です。天保山周辺は公園化されて現在に至っています。

総督・深尾丹波(ふかおたんば)、大隊司令・板垣退助(いたがきたいすけ)が率いる土佐藩の迅衝隊(じんしょうたい)が「高松征討」のため、高知城下を出発したのは慶応4年(1868)1月13日でした。そして、高松城を接収したのが同月20日のことです。破竹の勢いでした。