大野充彦『龍馬の小箱』(15)
ジョン万次郎の後半生


龍馬有縁資料館には、ジョン万次郎らが漂流してから帰国するまでの航路図(彩色図)が展示されることになっています。万次郎の聞き取り史料は諸施設に各種所蔵されていますが、それらを読みくらべてみますと、地名表記や年月日の異同がさまざまあります。

たとえば、地名の表記異同の具体例をあげますと、ハワイのオアフ島はウワフ、ウハウ、オワホー、オアホーなど、マサチューセッツ州南東部の港・ニューベッドフォードはヌベツボヲ、ヌーベッホーなどです。

万次郎らが無人島でアホウドリを食べていたとか、アメリカの捕鯨船に救助されたとか、万次郎はアメリカ本土で語学、航海術、測量術、数学などを習得したとか、そんなことはよく知られていることですので、今回は万次郎が帰国した後のことに触れたいと思います。

ジョン万次郎と伝蔵・五右衛門兄弟の計3名は嘉永4年(1851)1月3日、琉球・麻文仁間切(まぶに・まぎり)の浜に上陸しました。以後、彼らは薩摩藩、長崎奉行所、土佐藩の各役人から何度も同じようなことを尋問されますが、役人たちがもっとも問題視したのは「邪宗」のことでした。キリスト教などを信仰していないかどうか、それを万次郎らは糾問されたのです。でも、その点に関しては問題なし、と判断されたようです。

万次郎ら3名が土佐に帰ってきたのは嘉永5年(1852)7月11日でした。ところが、平成14年(2002)に公刊された『山内家史料 幕末維新』第2編上卷を確認しますと、万次郎らが高知城下に到着した日を嘉永5年(1852)6月12日としています。これは明らかな編纂ミスです。同書は「浜田真嘉代蔵漫筆抄出」を冒頭に掲げているのですが、同史料を確認しますと、3名の城下到着を嘉永5年(1852)7月11日と正しく記録しています。私のようなものに編纂ミスの事情まで分かるはずはありませんから、ここでは指摘のみに留めておきます。

前出「浜田真嘉代蔵漫筆抄出」は好個の史料です。土佐藩の大目付・青山忠蔵たちは万次郎らに、「他国往来はもちろんのこと、海上業も禁止する。その上で、出身地に戻す。海上業を禁止すれば、生業である漁業ができないであろう。それゆえ、生涯にわたって各自に『一人扶持』(ひとりが生きていけるだけの生活費)を毎年支給する。今後は『神妙』に暮らすように」と申し渡したことが判明します。

「浜田真嘉代蔵漫筆抄出」には、万次郎一行を引き取るため、長崎に派遣した役人名まで記しています。足軽小頭役の森田信五郎の名が最初に出てきますので、この人物が責任者だったと思われます。ただ、私はこの人物名を初めて目にしました。土佐藩にすれば、万次郎らを引き取りに行くだけのことですから、大物の役人をわざわざ派遣するまでもない、と判断したのでしょう。ただ、この森田以下、小横目2名、足軽3名、牢番2名、「下遣」という役務名の者(役務名から推測すれば、小間使いのような微禄者と考えられます)2名、浦役人1名の計11名のほか、万次郎らの身寄りの者1名を加えています。3名のために12名が派遣されたわけです。

私は、万次郎が帰国後に中ノ浜(なかのはま)に帰って母親と再会を果たしたことや、しばらくして高知城下に呼び出され、「定小者(じょうこもの)」という軽格の侍に登庸(とうよう)されたことは知っていましたが、万次郎が高知城下の山田町で仮住まいをし、藩校・教授館(こうじゅかん)の「下遣」を命じられていたことまでは知りませんでした。このことも「浜田真嘉代蔵漫筆抄出」に出てきます。ついでに紹介しておきますと、漂流することになった時の万次郎は数え年で15歳でした。土佐に帰ってきた時には26歳になっていたのです。

万次郎は嘉永6年(1853)9月12日、幕府に呼び出され、老中から米国事情をいろいろ聞かれます。同年(1853)6月、ペリーが浦賀に来航したためです。万次郎は米国に領土的野心がないこと、捕鯨業のための和親を切望していることなどを強調したようです。

万次郎は嘉永6年(1853)11月5日、幕府の直参(じきさん)となり、「中浜万次郎」と名乗ることを許されます。その後、幕府の軍艦操練所の教授になったり、捕鯨術を伝えるべく函館に出張したり、福沢諭吉(ふくざわ・ゆきち)、細川潤次郎(ほそかわ・じゅんじろう)、大鳥圭介(おおとり・けいすけ)、新島襄(にいじま・じょう)、後藤象二郎(ごとう・しょうじろう)、岩崎弥太郎(いわさき・やたろう)らに英語を教えたりしました。また、万次郎は万延元年(1860)1月19日、浦賀を出航した咸臨丸(かんりんまる)に同乗し、主席通弁官として活躍しました。

ホイットフィールド船長は、無人島から万次郎たちを救助してくれた命の恩人であり、一時は捕鯨業に必要な基礎力を万次郎に身に付けさせようとした人でした。万次郎は明治3年(1870)10月、21年ぶりに船長との再会を果たしています。船長65歳、万次郎44歳でした。かつてサラボイド号に乗って日本への帰国を急いだ万次郎は、ハワイを出発する前、ホイットフィールド船長に手紙を書き、無断の帰国を詫びてはいたのですが、再会した二人の話は尽きなかったことでしょう。

明治31年(1898)11月12日、万次郎は72歳の生涯を終えます。私は増補改訂版の『中浜万次郎集成』(小学館、2001年刊)に依拠してこの原稿を書きましたが、同書に教えられた一番感動的な史実を最後に紹介します。それは昭和50年(1975)の史実です。スミソニアン博物館はアメリカ独立200年祭の折、「アメリカを訪れ、何かを得、何らかの足跡をアメリカに残した人々」の遺品展示会を開いたそうですが、ドボルザーク、プッチーニなど33名の対象者のひとりに、「土佐の漂流民」万次郎を選んだのだそうです。