大野充彦『龍馬の小箱』(17) 龍馬の手紙


講演日時: 2014年1月25日(土)
講演場所: 高知市朝倉南町4-18-5 『不入流 伝習館 高知しみぬき学校』

講演内容:

本日は、全国各地からお集まりの皆さまに土佐の偉人・龍馬の話をさせていただく機会を与えられ、大変嬉しく存じます。私はかねがね、染み抜き名人の不入流(いらずりゅう)祖主・高橋勤様の全国的なご活躍に敬服している者でございます。高橋様から頂戴した「龍馬の手紙」という「お題」にお応えするため、龍馬とはいかなる人物なのかという縦糸と、手紙はどこにその本質があるのかという横糸で、1枚の布をこれから90分かけて織り上げてみたいと思います。

江戸時代を生きた人々は、正月の1か月あまりに遠方までも徒歩で出向き、「お年始回り」をしていましたが、明治になって郵便制度ができあがると、「お年始回り」が年賀状へと変化していきます。年賀状は、同一文面、同一年月日であっても、送る相手がすべて違いますので、同一の年賀状は2通存在することはないわけです。請求書や領収書も年月日、宛名が書かれ、再発行時には日付が変更されます。同じ額面のものを同じ相手に2通渡すことはありません。

年賀状や請求書、領収書は「手紙」です。「手紙」は差出者名、宛名、年月日が書かれ、印鑑が押されることもあります。「手紙」の原本は1通(1点)しか存在しないのです。歴史学では「手紙」のようなものを「文書(もんじょ)史料」と呼び、一級史料とみなします。なぜならば、相手がいるので嘘は書けないし、後人の手も加わりません。相手の社会的立場が高いほど表現も鄭重になり、差出人と受取人との社会的関係が文言、字体、形状などに投影されます。同時代性という特徴も有しています。メモや日記、著作類とはこの点が決定的に違うのです。

龍馬の手紙は140通ほど現存しています。歴史上有名な人物の「手紙」でも1通数十万円程度ですが、龍馬の場合は軽く1000万円を超します。龍馬の人気は絶大なのです。宛名で分類すると、姉の乙女に宛てた「手紙」がもっとも多く、16通確認されています。勝海舟に弟子入りした報告、妻・お龍の紹介、絵入りでの新婚旅行の説明など、乙女への「手紙」は龍馬の私的生活がうかがえ、好個の史料と言ってよいでしょう。「自分の手紙は必ず乙女姉さんの元に納めていただきたい」と、龍馬自身が述べています。龍馬と乙女は「手紙」で強く結びついていました。

龍馬の「手紙」の中で一番有名な言葉は「日本を今一度せんたく致し申し候」でしょうが、「運の悪い者は風呂から出ようとして金玉をつぶして死ぬこともある」、「私は40歳になるまでは家に帰らない覚悟だ」、「その道の達人の見る眼は恐ろしいものだ」、「私は滅多なことでは死なない。私が死ぬときは天下の一大事が起こり、その場で役に立たない時ぐらいで、中途半端な形では死なない」といった蘊蓄のある言葉は、すべて龍馬29歳の時の乙女宛て「手紙」に書かれています。龍馬は30歳前に、人生を達観し、かなりの覚悟を固めていたと推定されます。明治の森鴎外もそうですが、国家を背負った人間は老成するものです。

「日本を今一度せんたく致し申し候」という言葉は、「外国に便宜を与えているような悪い幕府の役人どもは一挙に戦争で打ち殺して」という文章の後に出てきます。開国し、外国に便宜を与えている幕府が許せない、というわけです。「せんたく」すべき対象は幕府内の腐った役人ということであり、この段階の龍馬は当時の急進的な攘夷思想にとらわれていた、とみるべきでしょう。

しかし、龍馬が偉大なのは、開明的な勝海舟(かつ・かいしゅう)や横井小楠(よこい・しょうなん)などの思想を発展させ、外国と接近した薩摩藩の要人とも親しくなり、長州のために軍艦や洋式銃を斡旋していきます。開国を前提にした上で、欧米並の国づくりへと大きくシフトを変えていくのです。開国した以上、産業革命を達成させた欧米諸国にいかに対処するか、それを古いしきたりにとらわれず、誰よりも自由に模索したのが龍馬だったのです。

土佐山内家宝物資料館所蔵の龍馬の「手紙」には、龍馬自身の朱書きがあり、訂正・抹消部分もみられますから、厳密に言えば「手紙」の下書きなのです。冒頭には「本文溝渕ニ送りし状の草■、御覧の為ニさし出ス」という、龍馬自身の朱書きがあります。溝渕というのは、龍馬が19歳のときに剣術修行のため江戸へ旅をした際の同行者だった溝渕廣之丞(みぞぶち・ひろのじょう)です。「草■」は、「草稿」の「稿」を書き間違え、塗りつぶしてしまったのでしょう。

この龍馬の「手紙」には宛名がありません。月日が記される箇所には「十一月」と書かれているだけです。溝渕の氏名と月日は清書の段階で記されたと思います。ただ、残念なことに溝渕宛ての原本はまだ発見されていません。問題は龍馬が冒頭で「御覧」に入れたいと書いた相手が誰なのかですが、実際にこれを受け取った人間がいたとなれば、下書きといえども立派な「手紙」ということになります。

龍馬はこの「手紙」で、「私は次男に生まれ、成長するまでは兄に従っていた。上方(かみがた)に居た頃は土佐のお殿様のご恩を想いながら航海術を学んでいた。頼る者もなく、資金も乏しく、簡単には大成できなかったが、基礎は修得した。その後の数年間は東奔西走したが、土佐を想わなかったことはなかった。しかし、土佐に帰らなかったのは初心がくじけるのを恐れたからで、志を果たさず、どうしてお殿様のお顔を拝むことができようか」と述べています。

自己紹介文のような龍馬のこの「手紙」は、受け取った溝渕廣之丞によって直接か、あるいは龍馬の下書きを受け取った人物によってか、それはよく分かりませんが、いずれにしても当時長崎にいた後藤象二郎(ごとう・しょうじろう)に渡ったと考えられます。有名な「清風亭(せいふうてい)会談」はこの「手紙」によって実現されたと言ってよいでしょう。

龍馬にとっての後藤は土佐勤王党の同志を弾圧した仇敵です。いっぽう、後藤は龍馬のことを、義理の叔父・吉田東洋(よしだ・とうよう)を斬首した勤王党の仲間だと思っていたはずです。しかし、ふたりはそんな怨讐を超え、公武合体路線が最善の方策だと歩み寄ります。薩長に同調したかと思われた龍馬ですが、慶応3年(1867)では土佐藩の藩論を是とし、土佐藩を後方から支援する海援隊の隊長になるのです。

大政奉還が実現しますと、龍馬は新政府構想に着手します。「新政府綱領八策」は今、原本が2通確認されています。今後、3通目、4通目が発見される可能性もあります。ただ、「新政府綱領八策」には宛名が書かれていませんし、「○○○自ら盟主となり」のように、新政府の最高指導者名が伏せ字になっていますから、その限りでは「手紙」ではないのですが、龍馬は新構想の根回しをするため、徳川慶喜(とくがわ・よしのぶ)とか島津久光(しまづ・ひさみつ)とか、あるいは山内容堂(やまうち・ようどう)の名をあえて伏せ字にし、賛同してくれそうな人に手渡したのではないでしょうか。そのように推測すれば、この「新政府綱領八策」も「手紙」とみることができます。

龍馬は、有能な人材を集めて政府の顧問にするとか、古代の律令のようなしっかりした一大原則を制定する、上院・下院の議会をつくるなどと構想を展開させるのですが、この「手紙」の1か月ほど前、「新官制擬定書」をつくり、新政府の重要ポストの構想も示していました。しかし、龍馬は新政府の重要ポストに自ら就こうとは考えていなかったようです。その点に関して陸奥宗光(むつ・むねみつ)は、「俺(龍馬)は世界の海援隊でもやろうかな、と言っていた。その時、龍馬は西郷などよりずっと大きな人物のように思われた」と述べています。のちに「明治の元勲」と呼ばれる西郷隆盛(さいごう・たかもり)より人間が大きく見えた、というわけです。

暗殺される前の龍馬は、土佐という枠はおろか、日本という国さえも超え、活躍の場を世界に求めていたのでしょう。