大野充彦『龍馬の小箱』(21)
火縄銃と洋式銃①


高知市立市民図書館は一般書籍のほか、「平尾(ひらお)文庫」など貴重な史料が数多く架蔵されている素晴らしい図書館です。同館の「徳弘(とくひろ)家資料」も重要な史料群のひとつで、龍馬の名が「徳弘家砲術門人帳」という帳簿に出てきます。龍馬の実兄・権平は安政2年(1855)に、そして龍馬自身は同6年(1859)に、それぞれ徳弘董斎(とくひろ・とうさい)に入門していたからです。

徳弘董斎は土佐の人間です。高知の城下町近くの中須賀(なかすか)村(現在の高知市中須賀町)に文化4年(1807)、下級武士の長男として生まれ、明治14年(1881)に死去します。徳弘家の墓所は高知市旭水源地(あさひ・すいげんち)山にありますが、董斎の墓碑には「西洋の砲、南派の墨」と刻まれています。彼は、江戸で高島秋帆(たかしま・しゅうはん)の弟子となり、土佐に帰って西洋流砲術を伝えたのです。いっぽう、彼は天性の画才によって南画(なんが)の大家としても敬愛され続けました。武市半平太は董斎に絵画を習っていた、と言われています。

徳弘董斎の西洋流砲術の門人数は約450名と伝えられています。もちろん権平も龍馬もその数に入っています。中国がアヘン戦争でイギリスに大敗すると、「鎖国」政策を堅持していた江戸幕府は(幕府がいつまでも「鎖国」政策に固執し続けていたから、と言い換えるべきかもしれませんが)、西洋の軍事力の凄さにショックを受けます。そんな折、高島秋帆は幕府に西洋流砲術の採用を進言し、徳丸ヶ原(とくまるがはら:現在の東京都板橋区)で大砲と銃の大規模な実射演習をしました。龍馬が7歳となる天保12年(1841)のことです。

銃砲はオランダから輸入したわけですが、徳丸ヶ原での演習を機に西洋式砲術が全国的規模でひろがっていきます。西洋流砲術を学んだ者たちは、ヨーロッパの戦争のあり方を大きく変えたナポレオンのことを知っていたそうです。権平も龍馬も徳弘董斎からナポレオンの話を聞いたに違いありません。蘭学とはめざす方向性が違っていましたが、日本も幕末になるといろんな分野で西洋文化の受容が急速に進んでいきます。

ペリーが浦賀に来航した嘉永6年(1853)以降は海防が緊急の課題となります。とりわけ海岸線が長い土佐では、多くの若者が緊迫感を持って西洋流砲術の修行に励んだことでしょう。実射の場所として史料によく出てくるのは浦戸(うらど)沖、仁井田(にいだ)浜、小石木(こいしき)、久万(くま)村などです。浦戸沖では「船打ち」の訓練がなされたようです。「船打ち」は浦戸沖まで船を漕ぎ出し、軍貝の合図とともに船上から大筒を撃ったのです。

かつて香美(かみ)郡の佐岡(さおか)村(現香美市土佐山田町)には森田俊右衛門という郷士(ごうし)が居住していました。65歳になった彼が元治元年(1864)に作成した史料によると、当主だった彼が剣術、要馬術、砲術の初伝あるいは中伝の腕前だったほか、相続人の息子・団右衛門(31歳)も剣術、槍術、要馬術、砲術を修行しいたことが分かります。なお、当時の森田家には他に、51歳、30歳、26歳、20歳、19歳の男性計5名が同居しており(俊右衛門からみれば実弟や実子、甥などにあたる人たちだったと思われますが)、彼らも武術の心得があったようです。この事例からお分かりいただけるはずですが、幕末土佐の郷士家に育った男たちは皆、権平・龍馬の兄弟同様、日頃から武芸に励んでいたのです。「砲術」が習得すべき武術の中に付け加わったところがいかにも幕末社会を象徴しているように思われます。

「砲術」と一口に言っても戦国時代以来の和式銃(火縄銃)もあれば、洋式銃(オランダから輸入)もあり、同様に大砲も和洋両様がありましたから、実物が手元にあれば別ですが、文字史料上の「砲術」というのはどのような火器をいかに発射させたのか、その修行内容は判然としません。江戸時代の軍事指揮権は将軍や諸大名が握っていました。ですから土佐にあっても、猟師の「脅(おど)し銃」(農作物を荒らす動物を威嚇する古式銃)までが把握・管理されていたのですが、たとえば「拾匁玉筒(じゅうもんめだまつつ)一挺(いっちょう)」とだけ記載されている場合、鉛製の弾丸の重さが10匁(約40グラム)の銃砲1挺だということは分かります。しかし、それが和式なのか洋式なのか、弾丸の飛距離や命中率などがどうだったのか、具体的なことは何ら知ることができません。

日本の銃の歴史は種子島に伝来した火縄銃から始まります。当初の銃構造は単純なものでしたから、火薬が入手でき、銃身が製造できる技術があった堺や国友(くにとも)村などには、伝来後しばらくして全国各地の戦国大名から注文が殺到することになります。ただ、根来衆(ねごろしゅう)とか雑賀衆(さいかしゅう)と呼ばれた人々は(その実体は土豪、地侍、僧兵など、地域に根ざした人々でしたが)、織田信長や豊臣秀吉の配下に組み込まれることを嫌い、鉄砲を集団で巧みにあやつって最後まで抵抗した、という歴史もあります。火縄銃を軍事力としてどのように位置づけるか、支配者の間ではその模索が江戸時代初期まで続きました。そして結果的には、騎馬侍は「嗜み」程度となり、実戦では足軽層が火縄銃集団を形成することになります。

(この項、次回に続く)