大野充彦『龍馬の小箱』(22)
火縄銃と洋式銃②


かつての「パトリオット」(主演・メル・ギブソン)という映画は、アメリカ独立戦争の民兵の活躍を描いた秀作でした。同映画の後半を観ていますと、主人公が弾丸をつくるシーンが出てきます。息子の遺品である鉛製の人形を焚火で溶かし、それを玉型に流し込み、仇敵を倒すための弾をつくるのです。映画は1776年を背景にしていました。自由と独立のために立ち上がったアメリカ大陸軍は、時代遅れと言われていたマスケット銃を使用していました。日本の歴史ではこの年、平賀源内(ひらが・げんない)がエレキテル(摩擦起電機)をつくっています。龍馬が生まれる60年あまり前の話です。

前回このコーナーで紹介した西洋流砲術の高島秋帆(たかしま・しゅうはん)がオランダから輸入したゲベール銃は、アメリカの独立戦争当時に時代遅れと言われていたマスケット銃を改良したものです。ゲベール銃が和式銃(火縄銃)と決定的に違うのは、燧石(ひうちいし)・雷管(らいかん)を組み入れた新式の点火装置銃だったため、雨天時でも使用でき、2発目を撃つまでの装填(そうてん)、発砲にさほど時間がかからなかった点です。

和式銃といっても、もともと火縄銃は1543年にヨーロッパ製のものが種子島にもたらされたわけですから、日本の銃はすべて洋式ということになるのですが、種子島伝来後の火縄銃は江戸時代を通して改良され続けますので、幕末に輸入される銃を洋式銃と呼び、それと区別する場合に和式銃と呼ぶわけです。

日本の火縄銃は先込め銃です。火薬を筒に入れて突き固め、弾丸を入れます。引き金を引くと、火種である火縄の先が引火して筒の火薬が爆発し、その勢いで弾丸が発射されます。ただ、発射後には火薬の燃え滓(もえかす)を除去しなければなりませんでした。また、火種を消さないように注意する必要がありました。火薬が湿っては不発に終わります。火薬の臭いや湿気対策、あるいは火種の保持など、面倒なことがいろいろありました。夜襲や風上(かざかみ)での攻撃には向きません。しかし、貫通力は弓矢の比ではありませんでしたから、急速に普及していったのです。

火縄銃土佐には「荻野流砲術」という和式砲術を修行した者が多くいました。流祖の荻野安重(おぎの・やすしげ)は江戸前期の人ですが、この流派は他流の長所を積極的に取り入れ、火縄銃の改良もおこない、全国でもっとも信頼されていました。西洋砲術家として全国の注目を集めた高島秋帆も一時、「荻野流砲術」に学んだことがあったようです。土佐藩では、この「荻野流砲術」のほか、「稲富(いなとみ)流砲術」や「島田流砲術」も人気がありました。ただ、洋式であれ和式であれ、あるいは通常の銃弾でも大砲でも、「飛び道具」には「飛び道具」なりのジレンマがありました。

銃も大砲も弾丸を重くすれば貫通力(破壊力)は増しますが、弾丸が重くなればその分、火薬が多く必要になってきますし、発射時の反動が大きくなり、命中率は低下します。弾丸が太くなれば、空気抵抗のために飛距離は伸びません。逆に、命中率や飛距離を重視しますと、銃身・砲身を長くしなければなりません。しかし、長くし過ぎると扱いにくくなります。銃身が長いと、狙いを定めるのが難しく、射手は筋力や精神の集中力を鍛え抜かねばなりません。狙いを安定させるためには、銃身に支えを付け、射手が腹這いになるという方法も考えられますが、それでは集団戦に向きません。また、重い大砲は運搬が大変ですし、砲台も頑丈にしなければならなくなります。

現在の弾丸は紡錘形をしていますが、幕末段階では和式、洋式を問わず、ほとんどの弾丸は球状でした。鉛の球弾であれば(鉛の重さと弾丸の直径は相関しますので)、ミリ単位で弾丸の大きさを精測するより、弾丸の重さで判別するほうが簡単です(注:弾薬の重さを加算させて表記する書物もあります)。重さの単位は匁(もんめ)、その千倍の貫(かん)です。

史料上、「三匁筒(さんもんめづつ)」と表記されているものは標準的な火縄銃で、「小筒(こづつ)」と称される場合もありました。「四匁筒」から「拾匁筒」あたりまでが 「中筒(なかづつ)」、「三拾匁筒」から「一貫目筒(いっかんめづつ)」は「大筒(おおづつ」と呼ばれていたようです。「三匁筒」の口径は12.3ミリ、「拾匁筒」は18.3ミリ、「一貫目筒」にいたっては口径が84.2ミリもありました。まさに大砲です。城門・城壁や船舶を破壊したり、敵の陣形を崩すために使用される火器なのです。

日本では火種の維持、弾丸や火薬の装填、発射時の火薬による反動などの問題のため、通常は騎馬侍が銃を扱うことはありませんでした。ですから、和式銃は重い弾丸、短い銃身のものが次々に改良され、足軽層や郷士(ごうし)、猟師などが扱うことになります。土佐藩の記録によりますと、寛保3年(1743)における土佐国内各村保有の鉄砲総数は6012挺でした。そして文化元年(1804)の史料には6647挺だったと記されています。その多くは猟師銃だったと推測されます。同じ文化元年の城内銃は(足軽層に貸し出されるはずの銃、ということでしょうが)、1450挺でした。さらに付け加えておきますと、城内にはこれらの鉄砲のほか、「大筒」「石火矢」計50挺があったとのことです。

(この項、続く)