大野充彦『龍馬の小箱』(24)
拳銃


幕末の土佐藩関係史料に散見される「一貫目筒」は、弾丸の重さが3750グラム、口径は84.2ミリだったようです。陸上競技の砲丸投げの国際基準は、一般女子が重さ4キログラム、直径は9.5センチから11センチまでの砲丸を使用することになっているそうです。1貫目筒の弾丸は砲丸投げの一般女子の選手が使用する砲丸より若干小さかった程度、ということになります。「一貫目筒」は明らかに大砲です。運搬からして大変な火器です。人数が足りない場合は小者方(こものかた)に願い出て、人夫(にんぷ)を確保する必要がありました。砲術の指南役というのは、門人に対する日頃の訓導と並行し、試射を実現させるだけでも、藩役人相手に数々の手続きをせねばなりませんでした。大変な仕事だったと思います。

私は以前、「三百目玉筒」というものの長さと重さが併記された珍しい史料を見たことがあります。長さ約4尺(約120センチ)、全重量70貫(約263キログラム)と明記されていました。「三百目」は300匁のことで、先ほどの「一貫目筒」ほどではないにしても、これまた「大筒」だったはずです。全重量が約263キログラムとは驚きです。「一貫目筒」にいたっては、全重量は500キログラム以上あったかもしれません。

大砲はすべて金属製と思いがちですが、松材などでつくられた旧式の砲身もあったようです。仁井田(にいだ)の浜辺でおこなわれた「検使打ち」という、家老や目付方(めつけかた)役人が検分する演習では、火薬量を間違えたためか、ときどき砲身が破裂する事故が発生しました。金属製の「大筒」でも似たような事故が起きたこともありました。大火傷を負ったり、脚を吹き飛ばされたりした足軽がいたのです。

大砲も大変でしたが、洋式銃の、たとえばゲベール銃の全長は約150センチありましたから、こちらも持ち運びが厄介だったことでしょう。このコーナーの第18回「刀の長さ」では、幕末の人々が土佐人の剣を「土佐の長刀(ながかたな)」と呼んでいたといったことや、剣の長さが80センチ以上、90センチ近くあったことなどを紹介しました。太刀の長さは通常、柄(つか)の長さを省きます。刀身が80センチ以上もある太刀は重くもあったわけですから、身長約172センチと推定されている龍馬でも、とっさに鞘(さや)から抜くのは大変だったはずです。その点、外国から移入された拳銃は便利だったと思います。

龍馬愛用の拳銃といえば、慶応2年(1866)1月23日夜(今風に表記すれば24日午前2時頃、ということにしておいていいのでしょう)、寺田屋に投宿中、伏見奉行配下の幕吏に襲撃された折に使用したものが有名です。龍馬が襲われたのは、「薩長同盟」とも「薩長盟約」とも言われている有名な薩長両藩の密約が龍馬の仲介で成立した直後のことでした。使用した拳銃は、高杉晋作の上海(シャンハイ)土産で、下関で贈られた拳銃だという説があるいっぽう、高杉が別のところで入手したものを龍馬に贈った、という説もあります。

龍馬は、寺田屋における遭難事件後しばらくして桂小五郎(かつら・こごろう)に宛て、当夜の様子を書き送っています。その一部を私なりに現代語訳してみましょう。龍馬は、「20人ばかりが寝所に押し込んできました。それぞれ槍を持ち、口々に『上意、上意!』と叫ぶので、少々論弁も致しましたが、相手はいまにも殺そうという勢いに見えましたので、致し方なく……」と書き綴り、そして「高杉から贈られたピストルで応戦し、1人を打ち倒しました」と報じています。高杉からもらった銃を使用したことだけは間違いありません。

ピストル龍馬が寺田屋で使用した拳銃は、スミス&ウェッソンの新型で、アーミーモデルと通称された6連発銃でした。銃身が中折れ式になっていて、回転式弾倉に弾を込める仕組みになっていました。この拳銃はアメリカ軍人が護身用として携帯していたといわれていますが、全長が274ミリ、重量は714グラムと書物に紹介されているのを読みますと、和服の懐(ふところ)に隠し持つにはちょっと不便だった気もします。龍馬は応戦中、手に受けた刀傷のため、弾を込めようとした際に弾倉を落とし、拳銃自体も紛失させてしまいます。

拳銃といえば、もうひとりの人物を取り上げなければなりません。幕府の元勘定奉行・川路聖謨(かわじ・としあきら)です。彼はペリー来航に揺れる幕府内にあって開国を唱えた開明的な能吏でしたが、反対勢力のために左遷されたあげく、中風(ちゅうぶう)のために半身不随に陥ってしまうのです。滅びゆく幕府に殉じようとしたのか、その点ははっきりしません。彼は江戸城総攻撃の予定日だった慶応4年(1868)3月15日に自決したのです。その際、病魔のために割腹する力がなく、作法通りに割腹しようとしたのですが、自力では命を絶てず、ピストルを喉に当てて自殺した、とのことです。日本におけるピストル自殺の初例といわれています。ただ、悲しい話、勝・西郷会談の結果、総攻撃は見合わされ、江戸城は無血開城するのです……。