大野充彦『龍馬の小箱』(29)
土佐藩の浜川砲台


ペリーが来航した嘉永6年(1853)6月、龍馬は江戸にいました。剣術修行のために出府していたのです。19歳になる龍馬は土佐藩士らと沿岸警備に動員されました。このことは平尾道雄氏や山本大氏(ともに故人)が指摘なさったとおりです。龍馬が実父・八平に宛てた同年9月23日付の書状には(私なりの現代語訳で紹介しますと)、「異国船警備の役目はひとまず免じられましたが、来春はまた、警備の一員に加わるつもりです」と書かれていたり、「異国船がところどころに来るらしいので、戦争も近々始まると思います。そうなれば、首を討ち取って土佐に帰ります」と、活気あふれたとも、稚気満々とも評すべき一文が認められています。ただ、龍馬の江戸湾警備の実情はこれ以上分かりません。今回は、ペリーが去った後、幕府の命令を受けた土佐藩が江戸湾に新砲台を築いたというお話をしたいと思います。

今回の舞台は「お台場」です。若者や外国人に人気の場所であること、あらためて強調するまでもないでしょう。東京湾に面して浜辺も一部に残り、レインボーブリッジやフジテレビのビル、遠くには東京タワーも見えるところで、モノレールや海上バス、日本科学未来館を利用する人たちも多い観光スポットです。「お台場」の名は幕府が築いた「品川台場」の名残りです。

黒船の来航に脅威を感じた江戸幕府は、江戸城を守るため、品川沖に砲台をつくりました。譜代大名などに命じ、突貫工事で築いたと言われています。いまも「第三台場」と「第六台場」は当初の姿をだいぶ変えているとはいえ、まだ残っています。備えつけられた大砲のひとつ「80ポンド青銅製カノン砲」は、現在の遊就館(ゆうしゅうかん:靖国神社境内にある宝物館)に収蔵されています。ただ、「品川台場」の大砲は一度も発射されたことがありませんでした。

『土佐史談』226号に掲載されている小美濃清明氏の「土佐藩品川下屋敷と浜川砲台」 を参照させていただくと、幕末の土佐藩は江戸に7つの屋敷を持っていました。現在の有楽町駅近くにあった鍛冶橋(かじばし)屋敷という上屋敷(かみやしき)、今は日比谷公園の一部になっている日比谷屋敷という中屋敷(なかやしき)はともによく史料に出てきますが、のちに薩摩藩に譲渡する三田の屋敷、そして築地や品川にも土佐藩の下屋敷(しもやしき)がいくつもありました。面積で比較すると品川屋敷がもっとも広く、1万6891坪あった、と小美濃論文が紹介しています。安政の大獄で、山内豊信(やまうち・とよしげ)が容堂(ようどう)と名を変え、3年間蟄居(ちっきょ)したのはこの屋敷です。

この品川下屋敷に付属した屋敷が浜川屋敷です。別名・鮫洲(さめず)屋敷でも知られています。小美濃氏によれば、土佐藩の江戸屋敷ではこの屋敷だけが江戸湾に面していたため、砲台を築くことになったのです。広大な敷地を誇った品川下屋敷と浜川屋敷は200メートルほどしか離れていませんでしたから、台場建設のための埋め立て用土は品川下屋敷から運ばれたそうです。

土佐藩士の森正名(もり・まさな)という人物が日記を残しています。原本は高知県立歴史民俗資料館が所蔵していて、高牧實氏による詳細な研究がすでに公刊されています。私は県立図書館の複写本(コピー)を閲覧したのですが、高牧氏の業績に導かれながら、浜川砲台建設にたずさわった森正名の事跡の一端を紹介していきましょう。

森正名は嘉永7年(1854)2月23日に高知を出立し、3月17日に江戸の土佐藩邸のひとつであった芝御屋敷に到着し、しばらくして品川御屋敷に移ります(龍馬はこの年の6月に帰郷しますので、2人が出会った可能性は十分あります)。森正名は、異国船渡来のための臨時御用を拝命したのですから、かなり勢い込んでいました。

森正名は品川の下屋敷で、間口9尺(約2.7メートル)しかない小屋で寝泊まりしていたのですが、6月28日に浜川御屋敷御台場の拡張工事の普請奉行を拝命します。すると、彼は我が意を得たりとばかり、すぐさま八丁堀(はっちょうぼり)から船に乗り、幕府の「御台場」を視察したり、また、土佐藩の品川御屋敷の浜に着くと、近所の土取場(つちとりば)の木材伐採の様子を検分したりしました。

森正名の日記には、西側が東海道に面し、東南が海に接していた浜川屋敷の略図が添えられています。龍馬たちが守備についていたと伝えられている場所は、「古来浜川御抱屋敷」と書かれたところだったのでしょうか。同所の広さは880坪と日記に書き込まれています。その場所から海に張り出す形で新しい砲台場が築かれます。「新規築出シ」部分は1426坪に及びました。南西部は垂直に堤が築き上げられました。海上から攻めてくる敵を撃退するためだったようです。

土佐藩の浜川砲台がほぼ完成した時、幕府の役人が検分に現地までやって来ました。その時です。急に潮が満ちてきた、というのです。それは当日朝に起きた地震による津波だったのです。ただ、幸いなことに、土佐藩の新たな砲台は、安政元年(1854)11月4日の地震、津波による被害をあまり受けなかった模様です。

史上「安政の大地震」というのは、安政2年10年2月に江戸を襲った地震を指します。森正名が体験したのは前年の地震です。しかし、安政元年の地震は駿河、遠江、伊豆、相模一帯に甚大な被害を与え、死者1万人以上に及んだ、といわれています。浜川砲台では、土崩れを防ぐためもあったのでしょうか、総出で台地に芝を植え、ようやく11月12日に完成します。

その後、森正名たちは鍛冶橋上屋敷で重臣たちからお褒めの言葉と白銀5枚ずつ、料理、お酒を頂戴し、労をねぎらわれました。大砲は13貫目規模だったようです。森正名は浜川新砲台の完成後しばらくして帰国許可を得て、安政2年(1855)4月2日に高知に到着しました。なお、浜川の龍馬像については、このコーナーの第9回「龍馬の銅像」において、すでに紹介しております。ご高覧ください。同像は東京品川区立会川(たちあいがわ)の京浜急行の駅にあります。