大野充彦『龍馬の小箱』(32)
土佐藩の家臣団をめぐって①


家臣団高知SGG善意通訳クラブの皆さま、本日はお招きいただきありがとうございました。これから2時間ほどお時間をいただき、土佐藩の家臣団についての私なりの考えを述べていきます。武士は本来、有力農民が自らの開墾地を守るために武装し、個々に主従関係を結んでいった人々のことをいうのですが、江戸時代になると次第に官僚化していきます。その様子、変容ぶりなどを、「公儀体制」という概念を使いながら概観するつもりです。

「公儀体制」という概念は、本日の講演の準備段階で私が思いついたものに過ぎません。私が昔から大きな影響を受けてきた藤木久志(ふじき・ひさし)氏の学説、とりわけ「惣無事令(そうぶじれい)」に関する一連の歴史解釈を思い起こしてのことです。ただ、最近の学界では、藤木氏の学説を批判する向きもありますが……。

藤木氏の説によれば、豊臣秀吉は軍事力に物を言わせ全国を制圧したのではなく、「私の戦い」は天下に背く、という理念を打ち出し、天下の統一を成し遂げた、というのです。

織田信長は「本能寺の変」以前の天正(てんしょう)7年から「公儀」と呼ばれていたと、かつて朝尾直弘(あさお・なおひろ)氏が指摘したこともありました。裸の暴力ではなく、公的な権力だとアピールする際に「公儀」とか「天下」という表現が使われた、というのです。

武士はもともと、身に降りかかった災いは自分の実力で解決していました。他の力には頼らなかったのです。これを「自力救済(じりききゅうさい)」と呼ぶ人もいます。結局は強い者が勝ちますが、より強い者が現れれば、その人に従ったほうが都合がいいと考え、主従関係を結びます。

戦国時代までの主従関係は、1対1の、個別的な、双務的な契約でしたから、気に入らなければ、その関係を自由に破棄できたのです。ただ、江戸時代の農村でもそうですが、それ以前の世の中でも、水や境界をめぐる争いは頻繁に発生していました。

いくら「自力救済」の時代とはいえ、みんなが納得する仲介者が欲しくなります。「同等人中の第一人者」を担ぎ出すのです。しかし、それでも当時はまだ、お前が偉そうにしていられるのは俺たちが必死にお前を支えているからだ、と言える社会でした。

しかし、領土の拡大をめざす集団が戦争を繰り返す戦国時代が長く続きますと、まるで本日の私のように、体力、気力が萎えてしまい、農民の疲れた様子を見るにつけ、できれば戦争をしなくて済む世の中にしたい、と思いはじめます。

そんな時に、「公儀」という言葉が引き合いに出され、最終的には豊臣秀吉が天下を統一します。「公儀」という言葉は、「天下」という言葉と同じように、暴力装置を備えた封建領主の支配を覆うような、理念的な、観念的な国家の意味で使われるようになります。

秀吉は、「天下を静める」という理念を打ち出し、四国征伐、九州征伐、小田原征伐、奥州仕置(おうしゅうしおき)を経て全国を支配下に治めますが、後北条(ごほうじょう)氏以外は、秀吉の軍門に下った長宗我部(ちょうそかべ)氏も島津(しまづ)氏も伊達(だて)氏も滅ぼすことはしませんでした。戦争のやり方が変わってきたのです。

「公儀体制」の特徴のひとつは、封建制が集権化し、主従関係が双務契約から、片務契約のように変質していく点です。個々の武士のみならず、大名の勝手も許されなくなっていきます。「御恩」と「奉公」のバランスが崩れ、「奉公」が一方的に強要されていくのです。

武士は兵農分離(へいのうぶんり)、城下町集住の政策によって農村から徐々に切り離され、個々に農村を支配することが許されなくなっていきます。大名でさえ、幕府の許可のもとでおこなうしかなくなっていきます。自由に農村支配ができるのは、秀吉や家康のような「公儀」を体現した者だけになっていきます。

ただ、「公儀体制」は徐々に固められていくのであって、秀吉の時代にすべてが整ったわけではありません。たとえば、本多政重(ほんだ・まさしげ)が好例ですが、関ヶ原の戦いの前後に徳川、大谷(おおたに)、宇喜多(うきた)、福島、前田、直江(なおえ)、再び前田というように、各大名を次から次へと渡り歩く「渡り奉公人」と呼ばれる武士が世の中にいっぱいいました。土佐藩にも孕石元政(はらみいし・もとまさ)のような例があります。

しかし、武士は次第に主君に取り込まれていきます。家臣団のことを「家中」というのは、そのあらわれではないでしょうか。家臣は主君への絶対服従を誓約するしか生きる術がなくなっていきます。