大野充彦『龍馬の小箱』(34)
土佐藩の家臣団をめぐって③


家臣団「公儀体制」の強権発動は、参勤交代にもっともよく現れます。中央政権の元へ全国の大名を集めるというのは、ヨーロッパの封建制度にはみられなかったことです。参勤交代の原型は、秀吉が京都の聚楽第(じゅらくだい)に諸大名を集めたことにありますが、制度化されたのは徳川幕府の3代将軍・家光(いえみつ)の時です。

江戸にいる将軍を警固するのが「参勤」です。諸大名は、幕府が決めた弓、槍、鉄砲、騎馬侍(きばざむらい)を揃え、「参勤」せねばなりませんでした。大名の妻子は人質でしたから、常に江戸暮らしでした。全国の軍事力を総動員する態勢、その最高指揮権は将軍が有していた、そのことをすべての人間に知らしめた。これが参勤交代だったのです。

山内(やまうち)氏は、幕府と交渉し、土佐一国を9万8000石から20万2600石の国へと修正しました。そうすることで、「家格」を引き上げたのです。しかし、自分の方から約2倍の石高にしたのですから、軍事的負担が倍増するのを甘んじて受けざるを得ませんでした。

土佐藩は、幕府に対する「御奉公」つまり軍事的役務の負担増のため、すぐに財政難に陥ります。借金の返済ができなくなるのです。その土佐藩を救ったのが土佐産の良質な材木でした。幕府との関係を壊すことなく、財政難を切り抜けます。これを「元和改革(げんな・かいかく)」といいます。

この「元和改革」の功労者として、以後の藩政に重きを置くのが野中(のなか)一族です。野中兼山(のなか・けんざん)は約30年間、土佐藩政を主導します。野中家は山内宗家(やまうちそうけ)からすれば傍系なのですし、兼山政治が続く限り、「公儀体制」のいまひとつの特徴である合議制を達成させることができません。

山内氏はそれ以前、土佐入国の時から苦労していました。長宗我部(ちょうそかべ)氏のかつての家臣が浦戸城(うらどじょう)を引き渡さなかったのです。浦戸城内は、引き渡しは止むを得ないと考える「家老方」と、徹底抗戦を叫ぶ「家中方」が対立し、結局は「家老方」が勝ちます。こうして浦戸城は、家康の家臣・井伊直政(いい・なおまさ)が派遣した部隊によって収公されます。

長宗我部氏の家臣たちは、主君・盛親(もりちか)不在のまま戦ったのです。井伊直政は、上方(かみがた)にいた盛親に対し、浦戸城が無事に接収できれば、隠居料を与えるとか、徳川家への仕官も家康に進言すると言っていたそうですが、結果はそうならず、盛親は大坂の陣で処刑されます。酷な言いかたですが、徹底抗戦を叫んだ「家中方」の一領具足(いちりょうぐそく)たちは、主君を死に追いやったとも言えるのです。もはや、戦国時代は終わっていたのです。彼等の戦いは「一揆」とみなされました。

長宗我部氏の残党は、山中に逃げ込みます。これを当時の言葉で「走り者」と言うのですが、山内氏はその懐柔に苦慮します。山内の懐柔策の柱は、政治は長宗我部時代のままにおこなう、というものでした。長宗我部地検帳(ちょうそかべ・ちけんちょう)を土地支配の根幹に据え、以後に開発された新田の検地しかおこなわなかったのです。

野中兼山(のなか・けんざん)が登用したことで有名な郷士(ごうし)も、長宗我部時代以来の由緒正しき家柄、というのが登用の条件になっていました。郷士は一時、1000名におよんだといわれています。これを兼山は配下の者に組織させていたのですから、兼山のグループは「家中内家中(かちゅうない・かちゅう)」の様相を呈していたと思われます。