大野充彦『龍馬の小箱』(35)
土佐藩の家臣団をめぐって④


家臣団渡部淳(わたなべ・じゅん)氏の『検証・山内一豊伝説』によりますと、土佐藩初期の家臣団は、長浜(ながはま)までに家臣となっていた者81名、掛川(かけがわ)時代に召し抱えた家臣が106名、土佐入国後の新規召し抱えが108名、ということですから、合計すると295名となります。初期の家臣は美濃(みの)出身者が多かったようです。

山本大(やまもと・たけし)氏は、「家臣全部ではなく」と断りを入れつつ、226名いたことを『高知の研究』第3巻で述べています。しかし、山内(やまうち)家に残る明治初年の記録には、950家あったと記されています。また、幕末の文久(ぶんきゅう)2年の切支丹宗門改帳(きりしたんしゅうもんあらためちょう)を見ますと、土佐一国の総人口は、赤ちゃんまで含めて51万7732人です。そのうち、家臣の家族、奉公人、当時「下女(げじょ)」と呼ばれた人々を含む人数は、男女合わせて2万3396名でした。

江戸時代は長く続きましたから、分家は増えていきます。かといって、土佐藩の基礎を命がけで築いた長浜衆とか掛川衆という家柄を切り捨てることはできません。そして、江戸時代も後半になると、高知城下には周辺の農村から出てきた者が多く集まってきていましたから、その中から下働きの者を安く雇って、武家の体面を維持した家臣も多かったはずです。文久2年の切支丹宗門改帳に示された武家人口は、そういった人々すべてを含んでいます。

戊辰戦争中、土佐藩の部隊で一番有名だったのは迅衝隊(じんしょうたい)です。迅衝隊という隊号が決定されたのは、鳥羽伏見の戦いが始まった後の1月11日のことでした。総督(そうとく)は深尾丹波(ふかお・たんば)、大隊司令(だいたいしれい)は板垣退助(いたがき・たいすけ)でした。13日に致道館(ちどうかん)を出足しましたが、600名あまりの部隊は郷士(ごうし)、従士(じゅうし)、地下人(じげにん)らが中心で、彼らを8つの小隊に編成したものでした。身分の高い武士はあまりいませんでした。刀は斜めに背負い、肩に洋式銃を担ぐ、という格好だったそうです。かつての武士は槍も持って行かねばならなかったはずですが、迅衝隊では禁止されました。    

明治維新は革命だったのでしょうか。革命だったとしたら、どんな革命だったのでしょうか。本日は「公儀体制」という、でっち上げに近い概念をチラつかせて話をしていますが、「公儀体制」の終局には征韓論(せいかんろん)があった、と私は考えています。

そもそも征韓論は、幕末の尊王攘夷派に共通する主張だったのです。尊王攘夷派は、朝鮮と友好関係を長らく続けてきた幕府が気に入らなかったのです。尊王攘夷派の精神に大きな影響を及ぼしたのは、国学(こくがく)であり、後期水戸学(こうきみとがく)でした。古事記や日本書紀に朝鮮支配の歴史が書いてあるではないか。古代の大和政権のようでなければならない。これが尊王攘夷派による幕府批判のひとつだったのです。

明治政府内での対立は、単純化して説明しますと、何を優先課題にするかの対立であって、征韓の当否は二の次の問題だったのです。「公儀体制」は、武士の、武士による、武士のための国家体制であり、時には「平和」や「仁政」のような幻想を振りまき、暴力支配の正当性を強調し続けたわけですが、明治になると、徴兵制を敷き、武士の特権を奪ってしまいます。

幕府政治に代わる政治を始めた明治新政府は、「明治の夜明け」のために命を懸けた武士を切り捨てたのです。西郷隆盛(さいごう・たかもり)や板垣退助がそれに異を唱え、朝鮮出兵を主張したのです。語弊はありましょうが、人を殺してきた武士に、もう一度仕事を与えてやろう、そうしないと新政府は瓦解する、と主張したのです。そして、西郷らは敗北します。

勝った岩倉具視(いわくら・ともみ)や大久保利通(おおくぼ・としみち)らは、出兵はまだ早い、いずれそのうちに、と考えていました。幕府を倒した次は、朝鮮侵略だ、というのは、戊辰戦争で武力対立しつつも、崩壊しなかった「公儀体制」の怖ろしい側面なのです。別の言いかたをしますと、「公儀体制」は、対外政策で長らく内部対立していた、ということですし、「公儀体制」は日本の都合だけを考えていた、まさに身勝手な、姑息な体制に過ぎなかった、ということです。そんな「公儀体制」の最大の矛盾が征韓論という形で露呈するのです。

アジアから見た明治維新は、新たに侵略国家が誕生した、ということだったと思います。いっぽう、産業革命を達成していた欧米諸国から見た明治維新はどうだったかと言えば、売り手市場の、まことに都合のよい国家ができた、ということだったのではないでしょうか。あえて武力侵略しなくても、十二分に儲かる、と思ったことでしょう。こんな明治維新に、土佐藩の家臣団も一定の「貢献」をした、という事実から目を背けることは、今後の日本にとっても、高知県にとっても良くないことだと思います。かつての土佐の武士の中には、西郷らの西南戦争に呼応しようとした者がいたのです。