アクトランドのひみつ【第7回】乗り物マニア・木村信之

木村信之氏写真集

乗り物のマニアであり、バスの写真集「頑張れボンネットバス」の著者として知られる故・木村信之氏。創造館には、氏が昭和後期から平成にかけて日本全国から集めたたくさんの乗り物(自動車、バス、機関車など)の写真を数百点展示しています。

当園では「頑張れボンネットバス」なども販売していますが、一読して木村氏がバスや自動車などの乗り物を心から愛していたことがわかります。

そんな木村信之氏ですが、いったいどのような人物だったのでしょうか?
「頑張れボンネットバス」の冒頭に、木村氏の人物像や想いがうかがい知れる文章が書かれていますので、そちらを抜粋してご紹介します。今から30年以上前、昭和55年の文章です。

「頑張れボンネットバス」 ~はじめに~(原文ママ)

鼻のつき出たボンネットバスはつい最近まで日本全国どこにでも見かけることができた。

それが、ふと気がついてみると、いつのまにかいなくなり、昭和54年末には営業用でわずか20数台を数えるだけになってしまった。蒸気機関車が消える時には日本中にブームを呼んだように、今また再びこのボンネットバスにカメラを向けるファンが増えつつある。

ところで、何がこのバスの人気を高めたのだろうか。それは我々人間には洋の東西を問わず、消えていくものへの惜別とか愛着心といったものが湧いてきて、普段見なれていた物が何となく宝物のように思われてくるせいであろうか。

では、何故に消えていったのであろうか。まずワンマンカーの発達(ボンネットバスはドアがひとつで、車掌が必要のため人件費も高くつく)。乗心地が悪いこと、車体長が短いため乗車人員が少ないことなどである。さらに歌にもあるように“田舎のバスはオンボロ車”といったイメージが強く運行地区の人には評判が悪く、運転手さん達も『かっこ悪い』と言って乗りたがらないなども原因になっている。

反対に良い点は小型で小まわりがきき、馬力がある。衝突事故にも強く前輪にエンジンが乗っているおかげでハンドルが切りやすく、下り勾配の山道、急カーブ、狭隘区間でも対向がしやすいなどである。現在ボンネットバスの残っている路線は、これらの特性を生かした場所であるが、道路の改良や不採算路線の廃止、新型バスの置き換えでまもなく終焉を迎えるであろう。

私達のまわりには、このボンネットバスに想い出を持つ人達が意外と多い。特に鉄道の通っていなかった土地に育った人達には、汽車や路面電車以上になつかしいことだろう。私自身も物ごころついたころには、一日に数回しかバスが通わないような土地で育ったせいか、時計がわりにバスのダイヤを覚えていた。また父や母が帰ってくる頃だといって停留所で待っていた想い出もある。友人の中には、車掌さんにほれてしまい、想いを寄せる車掌のバスが来るまで待っていた話や、通学のバスの中で恋が芽生えたといったことも聞いたことがある。子供のころに見た映画の中には数々のバスが出たシーンもあったのだが、タイトルは思い出せない。その他、戦前の青バスや赤バス、円太郎バス、戦中の木炭バス、戦後のトレーラーバスや米軍トラック改造バス等々。町から村へ、村から町へ、通勤・通学列車がわりにバスを利用した人も多いことだろう。

“頑張れボンネットバス” これからは第二の人生として観光バスや自家用バスに活路を見い出していくであろう。ここでは走行距離も短く、定員外乗車もなく、使い用ではまだまだ長持ちするはずである。拍手を送りながら、このバスの余生を暖かく見守ってやりたいと思う。

最後に、この取材にあたりご協力いただきました各地のバス会社の皆様に御礼を申し上げます。また「日本バス研究会」の会員様は全国のボンネットバスを調査されました。心からありがとうと申し上げます。

昭和55年4月 木村信之

ボンネットバス