アクトランドのひみつ【第9回】絵金年表

土佐の天才絵師・弘瀬金蔵、通称「絵金」。絵金は18歳で江戸に出て狩野派を学び、帰国後21歳で土佐藩家老桐間家の御用絵師となりました。33歳で町絵師へと下野したのち、ここ香南市を拠点として明治初期まで活躍しました。

今回はそういった絵金の生涯を年表にしてみました。絵金が芝居絵屏風を大成するまでの足跡を感じ取れるはずです。

1812年(文化9年)10月1日 1歳 高知城下新市町(現在の高知市はりまや町)に髪結いの子として生まれる。庚申信仰により「金蔵」と名付けられる。父 木下専蔵(久七、一記)、母の名は不明。
1818年(文政元年)1月3日 7歳 弟 寅七生まれる。
1827年(文政10年) 16歳 池添楊斎美雅に師事、「美高」の号をもらう。
1829年(文政12年) 18歳 2月15日、渡辺又右衛門方にて餞別会が開かれる。絵金は江戸へ出立するにあたり『武差野や ふしの高ねもうつし絵の 東のつとをまちわたるなり(これからあなたが旅立つ武蔵野は、富士の高峯も写し、またそのうつし絵をも江戸の土産として待ち続けるよ)』という門出を祝う励ましの詩を文人である楠瀬大枝より贈られている(楠瀬大枝枝「燧袋」)。2月17日、10代豊信の息女徳姫の御輿の駕籠かき(御六尺、定小者)となり江戸へ出立。
1831年(天保2年) 20歳 江戸土佐藩御用絵師前村洞和に師事。前村洞和より「洞意」の号をもらう。
1832年(天保3年) 21歳 江戸より帰国。山内家家老 桐間家の御用絵師となり、「林洞意」と名乗る。
1836年(天保7年) 25歳 寄書「墨竹図」に島本蘭渓、壬生水石らと「敬載」の号で寄せる。
1837年(天保8年) 26歳 この年、師匠 池添楊斎の媒酌により6歳違いの初菊(姓 橋本)と結婚か…。
1838年(天保9年)8月 27歳 長男 房太郎(汲助)生まれる。
1841年(天保12年) 30歳 師匠 池添楊斎逝去(享年51)。
1843年(天保14年) 32歳 「古今土佐藩諸家人名録」に「林金蔵 号洞意 蓮池町 山内国宰画師」と記録有り。長女 糸萩生まれる。
1844年(弘化元年) 33歳 この頃、贋作事件起きるか…。「弘瀬柳栄」と名乗る。
1845年(弘化2年) 34歳 瀬洞意筆の絵手本有り。
1846年(弘化3年) 35歳 絵馬「神馬図」(洞意筆、高知市一宮土佐神社)奉納。
1847年(弘化4年)9月5日 36歳 次男俊三郎(三之助)生まれる。
1852年(嘉永5年) 41歳 天満宮九百五十年祭に河田小龍と「玉藻の前」を描く。
1853年(嘉永6年)1月24日 42歳 長男 房太郎(汲助)を藩御用表具師、美吉家に養子に出す。戸籍に、「御町医師弘瀬柳栄」と公式に記されている。
1854年(嘉永7年・安政元年) 43歳 安政南海大地震が起きる。後に「土佐震災絵図」を描く。
1855年(安政2年) 44歳 師匠 島本蘭渓 逝去(享年84)。高知市薊野の真宗寺の墓地に埋葬される。
1858年(安政5年) 47歳 上方から城下蓮池町に帰る。月山大師堂の天井画(友竹斎筆、大月町)を描く。
1860年(万延元年) 49歳 絵馬「昌俊弁慶相騎図」(洞意筆、高知県立歴史民俗資料館所蔵)奉納。
1863年(文久3年) 52歳 11月、次男 弘瀬俊三郎(16歳)が「足軽」になる。絵馬「曽我五郎の図」(友竹斎美高筆、高知市一宮土佐神社)奉納。この頃から「洞意」から「友竹斎美高」と称号変わる。
1865年(慶応元年) 54歳 長男 房太郎に長男 竹馬(「友竹」の竹を入れている)が生まれる。絵馬「一谷嫩軍記」(友竹筆、香我美町徳王子若一王子宮)奉納。絵馬「羽柴秀吉、佐久間盛政の図」(友竹斎筆、伊野町神谷天石門別安国玉主天神社)奉納。絵馬「曽我夜討図」(友竹斎筆、伊野町神谷天石門別安国玉主天神社)奉納。
1866年(慶応2年) 55歳 絵馬「宝袋図」(友竹筆、伊野町大国椙本神社)奉納。
1869年(明治2年) 58歳 この頃、城下 蓮池町に住む。「雀七」と名乗る。
1871年(明治4年) 60歳 絵馬「賤ヶ嶽七本槍図」(友竹筆、芸西村新井田神社)奉納。
1872年(明治5年) 61歳 須崎の紺屋 市川邸から去る。
1873年(明治6年) 62歳 中風を患い、しばらく左手で描く。絵馬「賤ヶ嶽図」(友竹斎筆、伊野町神谷天石門別安国玉主天神社)奉納。
1876年(明治9年)3月8日 65歳 絵金、死去。上田村(現在の高知県南国市)の本正寺で葬儀を行う。本正寺の奥書院の小襖には、「友竹」の落款がある竹林の図が描かれている。
1879年(明治12年)7月22日 妻 初菊、死去(享年62)。10月「友竹斎夫婦墓」が高知市薊野の真宗寺山中の墓地に建立される。