大野充彦『龍馬の小箱』(6)
古文書の形式


このコーナーの第4回は偽文書(ぎもんじょ)をとりあげましたが、今回は本物、それも土佐山内家からの書状などです。すべてが原本(げんぽん)です。8点が屏風(びょうぶ)に仕立てられています。もちろん、アクトランドの収集品のひとつで、龍馬歴史館 2階の 「坂本龍馬有縁資料館」 に展示されることになっています。

文書(こもんじょ)が掛け軸や屏風に仕立てられることは珍しくありません。ただ、そういった類の古文書は、鑑賞者のことを意識するあまり(すっきり、きれいに見せようとするため)、一部が裁断される場合が多いのです。しかし、ここに紹介するものは本来の体裁(書かれた当初の姿)がよく保たれています。

古文書の形式にはいろいろありますが、代表的なものに竪紙(たてがみ)と折紙(おりがみ)があります。竪紙は、本文(ほんもん)を書く時、本紙の全面を使用します。江戸幕府の将軍が大名に宛てた領知判物(りょうちはんもつ)などはこの形式です。以下に釈文(しゃくもん)を掲げる文書も竪紙です。

  •      一筆令啓候。然者、見事之
  •          (カ)
  •        柿一鉢到来、令満足候。謹言。
  •         八月廿日
  •             忠直(花押)

包み紙の表書きには「西山七郞右衛門殿  山修理大夫 忠直」と書かれていますから、この文書は、三代藩主・山内忠豊(やまうちただとよ)の実弟・忠直(ただなお)が家臣・西山七郞右衛門に対し、進物の礼を述べた書状、というように解釈できます。

折紙というのは、本紙を二つ折りにし、折り目を下にして書く形式です。いまも時々使われる「折紙付き」という言葉は、日本刀などの鑑定書が折紙で書かれていたことに由来します。折紙は二つ折りにされているわけですから、全体を拡げると、短文の場合は下半分が白紙のままとなりますし、長文の場合は後半部分の本文が逆さになります。

写真をご覧ください。下半分が白紙状態になっています。本文が短かったからです。釈文は次の通りです。

  •      大廻之舟、来候ニ付、
  •      手作之漬薇一
  •      桶到来、別て賞
  •      味珍敷、令満足候。
  •      為其、如此候。謹言。
  •         対馬守
  •      正月七日 忠豊(花押)
  •        西山七郞右衛門殿

宛名(あてな)は先ほどと同じ西山七郞右衛門。差し出した人間は三代藩主・山内忠豊です。両者の花押(一種のサイン)を見比べてみますと、兄であり、藩主である忠豊のほうが立派です。

土佐藩主は、「土佐守」を名乗ることも多かったのですが、忠豊のように、藩祖一豊の例にならって「対馬守」を名乗ることもありました。なお、一豊は「かずとよ」ではなく、「かつとよ」と読むのが正しいようです(渡部淳著『検証・山内一豊伝説』を参照のこと)。私はこの説を支持します。

西山七郞右衛門という家臣は、土佐山内家宝物資料館架蔵の「御侍中先祖書系図牒」(おさむらいちゅうせんぞがきけいずちょう)によれば、寛文5年(1665)に100石加増され、総知行高が600石となります。西山家の元祖は長宗我部(ちょうそかべ)の家臣だったようですが、知行高が600石ともなれば、土佐藩では上級武士のひとり、と言っていいでしょう。七郞右衛門は、二度にわたって浦奉行(うらぶぎょう)を務めています。長宗我部の水軍力は豊臣政権から高く評価されていたようです。その家臣のひとりが浦奉行に任命されていたのです。私は興味深い史実だと思います。

忠豊の礼状には、「『大廻之舟』が来た。手作りの『漬薇』(つけぜんまい)一桶が届いた」と書かれています。「大廻之舟」とは遠距離航行が可能な大型船、という意味でしょう。西山七郞右衛門は、参勤交代で江戸に赴いた忠豊のため、薇を漬けた桶を贈った、ということかもしれません。西山の浦奉行在任中のことだった可能性が考えられます。ただ、残念なことですが、年代を確定だけの材料が他にありませんので、ここでは「年未詳」としておきます。