大野充彦『龍馬の小箱』(11)
致道館 (ちどうかん)


土佐藩が幕末につくった教育機関を致道館(ちどうかん)といいます。幕末の政局に即応するため、あるいは、新しい時代が求める文武両道のあり方を模索した結果、同館は文久2年(1862)2月に落成し、同年4月から開館しました。当時の地名で表記すれば、「土佐郡西弘小路(とさぐんにしひろこうじ)」の地に、敷地面積9180坪あまり、建坪1391坪の施設が出来上がったのです。板垣退助(いたがきたいすけ)率いる迅衝隊(じんしょうたい)は明治元年(1868)1月13日、ここから出陣しました。
跡地は今、城西(じょうせい)公園になっています。致道館の正門は、解体修理され、大切に保存されています。

土佐史談会から復刻された『高知藩教育沿革取調(こうちはんきょういくえんかくとりしらべ)』という本は、明治16年(1883)の文部省通達に応じて高知県が提出した18冊からなる報告書が元になっています。当時の文部省は、「学制(がくせい)」以前における各藩の教育のあり方を研究するため、各府県に残っている関連書類などの調査を指示したのです。「学制」というのは、明治5年(1872)に制定された近代学校制度についての規定のことで、「必ず邑(むら)に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん事を期す」という国民皆学の精神のもと、各地に多くの小学校を設立しようとしたことで知られています。

今回は、『高知藩教育沿革取調』に依拠し、致道館の概略を述べることにします。同館の総裁は、藩主・豊範(とよのり)の叔父・豊栄(とよよし)でした。ただ、豊栄は開館した翌年に病没します。そのあとは、奉行職(ぶぎょうしょく)という、土佐藩の職制上の最高職に就いた家老が統括しました。致道館は廃藩置県後、しばらく県庁になっていました。そして刑務所(一時は「高知監獄」と呼ばれていたようです)の時期を経て、現在のような公園になるのです。

土佐藩には従来、教授館(こうじゅかん)という藩校がありました。致道館の諸規則はしばらく、この藩校に準じていましたが、次第に独自の運営がなされていきます。科目は多く、経学、史学、国学、句読、槍術、剣術、弓術、砲術、士官学、生兵学、練兵、馬術、要馬術、居合術、体術、貝太鼓のように、16科もありました。文武を兼修させつつも、人材によっては「偏修」を命じることもある、というのです。いまのような画一的な教育はなされていなかったようです。最近の教育の個性重視という考え方は、すでに150年前に実践されていたのです。なお、私たち現代の人間は、武道とか、柔道、剣道という表現を当たり前のように使用するのですが、幕末にはそのような用例が見あたりません。すべて「術」です。「道」を付すようになったのは明治以降ではないでしょうか。

就学年齢については、 「十六歳ヨリ二十二歳迄」という項目が最初に掲げられていますから、若者を受講の主対象にしていたことがよくわかります。ただ、興味深いのは、就学年齢規 定は「十六歳ヨリ二十二歳迄」にとどまることなく、「二十三歳ヨリ二十九歳迄」、「三十歳ヨリ三十九歳迄」、「四十歳以上」と続くのです。つまり、入学者 の年齢制限は実際上無かった、ということになります。城下より1里(約4キロ)以上離れている者は「志次第」とか、勤務のある者も「志次第」と明記されています。就学を強制的に義務化するという意思は感じられません。むしろ、多くの人間に門戸を開放する、といった感じが伝わってきます。

封建社会は、先例を重視します。藩主の叔父が致道館の総裁に就任したのも、教授館の先例に倣(なら)ったのです。しかし、幕末は因習にとらわれることが許されない時代でした。致道館の規定も相次いで変更されました。慶応3年(1867)7月には、軍制改革にともなって、弓術の科が廃止されます。同年10月には「小隊運動」の「専習」が課せられます。そして、12月の規定には、「軍馬術」「練兵」といった科目名や、「郷士隊」「徒士隊」という隊名が現れてきます。致道館は、下級武士や郷士をも含めた戦闘部隊の調練にその目的を特化させていくのでした。

明治元年(1868)1月13日、致道館から出陣した迅衝隊(じんしょうたい)は、丸亀(まるがめ)で錦旗(きんき)を受け、正式に「官軍」となります。同月20日には陸路、海路、二手に分かれて高松に向かい、戦うことなく高松城を接収しました。ただ、高松側に視点を移すと、新政府軍に「恭順」の意をあらわすため、ということでしょう、高松城の接収前には家老の小夫兵庫(おぶひょうご)と小河又右衛門(おがわまたえもん)の両名が切腹していたのです。