大野充彦『龍馬の小箱』(13)
幕府軍艦の運命


龍馬は文久3年(1863)5月17日付けで、姉・乙女(おとめ)に長い手紙を書きました。その手紙の冒頭には、「此頃は天下無二の軍学者勝麟太郎(かつ・りんたろう)という大先生に門人となり……」と書かれています。「大先生に」の「に」は、龍馬の書き癖のひとつで、「の」と置き換えるべきなのですが(同年3月20日の手紙でも「今にてハ日本第一の人物勝麟太郎という人にでしになり……」と、勝海舟(かつ・かいしゅう)の弟子になったことを乙女に報告していますが、この場合の「勝麟太郎という人に」の「に」も「の」と受けとめた方がよいでしょう)、それはともかくとして、龍馬は一時期、勝海舟に心酔します。

勝海舟は龍馬が入門する前、正確には万延元年(1860)1月19日、咸臨丸(かんりんまる)に乗り込み、サンフランシスコをめざします。そして同年5月6日、太平洋横断という偉業を成し遂げ、品川に帰航しました。勝海舟は当時、時代の寵児でした。

今回は、そんな勝海舟とともに有名な咸臨丸や、龍馬も乗った幕府軍艦・順動丸(じゅんどうまる)など、幕府軍艦の数奇な運命に触れたいと思います。

咸臨丸は幕府がオランダに発注し、購入した木造の蒸気船です。原名はヤパン号、ヤッパン号、ヤーパン号など、書物によって表記が違いますが、翻訳すれば日本号ということです。「咸臨」という名には「君臣が親しみ合う」という意味が込められていた、といわれています。私は根っからの文科系人間ですから、船舶の構造などは専門書を読んでもちんぷんかんぷんです。「性能諸元」という言葉もはじめて知りました。性能の諸要素という意味らしいのですが、咸臨丸は洋式スクリュー、砲12門を装備し、排水量300トン、100馬力蒸気エンジン、3本マスト、全長約49メートル、幅約8メートルだったそうです(写真は龍馬歴史館の咸臨丸模型)。

咸臨丸は万延元年(1860)、「軍艦奉行」の肩書きを有する木村摂津守喜毅(きむら・せっつのかみ・よしたけ)以下、勝海舟、佐々倉桐太郎(ささくら・とうたろう)、浜口興右衛門(はまぐち・おきえもん)、小野友五郎(おの・ともごろう)など幕臣のほか、随行員・福沢諭吉(ふくざわ・ゆきち)、通訳・ジョン万次郎、塩飽(しわく)諸島出身の水夫ら100名あまりが乗り込み、幕府船初の太平洋横断を成し遂げました。日米修好通商条約の批准書(ひじゅんしょ)を交換するための遣米使節団(アメリカ軍艦ポーハタン号に乗船)に随行したのです。咸臨丸の実質上の艦長は勝海舟でした。船員の大半が船酔いをしたものの、アメリカ乗員(ブルック大尉)の助言やジョン万次郎の活躍によって荒海を乗り切ったといわれています。

サンフランシスコまで往復した咸臨丸は、その後の酷使のために故障が続き、軍艦籍を抜かれて輸送船となってしまいます。明治新政府の所管になってからは北海道開拓のための輸送に活躍しますが、明治4年(1871年)9月に小樽へ向かう途中、現在の木古内(きこない)町のサラキ岬沖で座礁、沈没しました。

咸臨丸の同型艦が朝陽丸(ちょうようまる)です。同型艦なのですから、先ほど触れた「性能諸元」も同じだと思います(私は純正の文科系人間ですから、そのように判断しました)。幕府は長らくオランダと通商していましたから、その縁で2隻ともオランダから買い入れたのです。咸臨丸が先に日本に着き、朝陽丸は1年後長崎に着きました。ただ、その後の数年間で京都の状況は大きく変化します。即時攘夷を主張する急進派公家・三条実美(さんじょう・さねとみ)などはさまざまなことを画策していましたが、ついに将軍を上洛させることに成功します。14代将軍・家茂(いえもち)は文久3年(1863)3月、3代家光(いえみつ)以来229年ぶりに上洛し、4月には攘夷期限を5月10日とする旨を天皇に奏上(そうじょう)しました。この史実ひとつで、尊王攘夷派が勢力を拡大させていたことがはっきり分かると思います。余談ですが、新選組が京都守護職の配下に属することになったのはこのような時代背景があったわけですし、公武合体派は政局を打破するため、8月18日にクーデターを決行することになります。

攘夷期限(文久3年5月10日)に攘夷を決行したのは、幕府ではなく長州藩でした。長州藩はこの日、下関海峡を通過しようとしたアメリカ商船を砲撃しました。朝廷と幕府との間で取り交わされた確約通りに攘夷を決行したのですから、長州藩は褒められてもよかったはずですが、幕府は長州藩を糾問するため、朝陽丸を派遣しました。攘夷の決行といっても、当時は攘夷を無条件で実行するか否か、幕府と長州藩の間には大きな温度差があったのです。

面白くないのは長州藩です。それ以外にも長州藩を激怒させることが重なり、ついに朝陽丸は奇兵隊によって武力占拠されてしまいます。まるで慶応元年(1865)における第二次幕長戦争の勝敗を暗示させるような出来事でした。これを史上、朝陽丸事件といいますが、朝陽丸の悲劇は続きます。江戸幕府が瓦解したあと、朝陽丸は明治新政府に属し、新艦長・中牟田倉之助(なかむた・くらのすけ)の指揮下で箱館総攻撃に参加。しかし、皮肉なことに、旧幕府艦・蟠龍丸(ばんりゅうまる)の砲弾によって火薬庫が直撃され、爆沈してしまうのです。

朝陽丸は日本海軍の軍艦籍第1号で、2号は翔鶴丸(しょうかくまる)でした。翔鶴丸はアメリカで建造された木造蒸気船です。排水量350トン、長さ約60メートル、幅約7メートル。同船は第2次幕長戦争や鳥羽伏見の戦いで実戦に参加しますが、幕府から新政府に上納された直後、大阪から兵員を輸送していた時に伊豆の網代湾(あじろわん)で沈没してしまいます。

欠陥続きの咸臨丸に代わって購入されたのはイギリスの鉄船ジンジャーでした。日本名を順動丸(じゅんどうまる)といいます。この船は文久2年、3年、勝海舟の指揮下におかれていました。龍馬も何度か乗ったと記録にあります。将軍・家茂も乗りました。排水量405トン、360馬力、全長約77メートル、幅約9メートルということですから、咸臨丸や朝陽丸よりひとまわり大きな蒸気船でした。戊辰戦争では旧幕府艦として活躍します。ただ、寺泊(てらどまり・現新潟県長岡市)に碇泊中、新政府軍の軍艦に挟撃され、逃げ場を失って自爆します。沈没した同艦の外輪シャフトは現在、寺泊水族館前で展示されています。