大野充彦『龍馬の小箱』(18)
刀の長さ


高知には戦前、寺石正路(てらいし・まさみち)という史家がいて、大著『南学史(なんがくし)』などで全国的に注目を集めました。その寺石氏が、戦国末期に大阪へ出向いた長宗我部氏の家臣たちの身なりを『南国遺事(なんごくいじ)』という著書の中で紹介しています。彼らは紬(つむぎ)や木綿(もめん)という、じつに質素な着物を着ていたらしいのですが、袖(そで)や袴(はかま)の寸法を短くし、着物には綿(わた)をいっぱい入れていたその姿はまるで土竜(むぐらもち)のようだった、というのです。土竜というのは「モグラ」のことです。

長宗我部氏は「四国征伐」に敗れ、豊臣秀吉の軍門に降ります。ですから、「臣従の礼」を示すため、秀吉のもとに馳せ参じたのですが、寺石氏の『南国遺事』によれば、長宗我部の家臣たちは「田舎者丸出し」の身なりだったわけです。同書は彼らが腰に差していた刀にも触れています。「太刀(たち)は三尺あまり、脇指(わきざし)は二尺」だったと書かれています。

1尺を約30センチと考えれば、長宗我部氏の家臣たちの太刀は90センチ、脇指は60センチという長さだったことになります。当時の日本人の体躯を考えれば(とりわけ土佐人の場合を考えると)、太刀、脇指ともかなり長かったと思われます。なお、幕末維新期に関する書物には時々「土佐の長刀(ながかたな)」という表記が見受けられますが、この呼称の始原・発祥事情はまったく不詳、というほかありません(幕末の土佐人は、長宗我部時代を真似る意識を持っていた、などと空想するのも一興かもしれませんが……)。

2012年10月から約2カ月、南国市岡豊の高知県立歴史民俗資料館では「刀 武士(もののふ)の魂」という特別展が開かれ、多くの入館者が訪れ話題になりました。同展の企画・研究担当学芸員・野本亮氏のお話では、太刀の長さを1とすれば、脇指は3分の2ほど、というのが通例だそうで、比率の点でいえば、長宗我部氏家臣団の「太刀は三尺あまり、脇指は二尺」というのは「妥当」なのです。ただ、両刀はあまりにも長く、その点でも大阪人が括目(かつもく)したにちがいありません。

龍馬の愛刀として知られている太刀(銘「吉行」。京都近江屋で刺客に襲われた時、床の間から取ろうとした太刀のことです)は現在、京都国立博物館所蔵となっていますが、反(そ)りが無い直刀で、その長さは約72センチです。長宗我部の家来たちは90センチの太刀を差していたというのですから、龍馬の愛刀は「標準並み」といってよいのかもしれません。

もともとは龍馬の太刀だったのに、江戸での剣術修行の際、弘瀬健太(ひろせ・けんた)の太刀と交換したため、以後は弘瀬愛用のもの、と言われる太刀は、長さが約80センチあります。いっぽう、武市半平太(たけち・はんぺいた)の愛刀(銘「肥前国河内守藤氏正広」)の長さは82センチあまりです。この2例は「土佐の長刀」というべきでしょうか。

近藤長次郎(こんどう・ちょうじろう)は、イギリス留学を企て、亀山社中(かめやま・しゃちゅう)の同志に詰問され、ついに切腹することになるのですが、生前の写真に写された太刀は体躯に不似合なほど長いのです(その太刀の実寸は不明です)。

慶応の頃、長崎で撮ったと言われている龍馬の写真(三吉慎蔵の子孫宅に伝わった写真で、風貌や着物、ブーツ姿は桂浜の銅像にそっくりです)を見ると、龍馬は椅子に座り、座禅の時のように手を結んでいるのですが、太刀は長く、鞘の先が床に届きそうです。

脇指の長さは、先にも触れましたように、太刀の3分の2というのが一応の目安になっています。ちょっと回りくどい解説をしますと、柄(つか)部分を含む脇指の長さは、太刀の柄部分を除いた長さ、というのが一般的だと言われているのです。これは私の思い込みでしょうか。侍の脇指は思いのほか長かったのです。近江屋に投宿中の龍馬を襲撃した京都見廻組の桂早之助(かつら・はやのすけ)が使用したと伝えられている短刀は、長さが42センチほど。1尺3寸9分です。

今度は脇指の差し方に注目してみましょう。万延元年渡米の際に撮影された、と伝えられている勝海舟の写真を見ますと、脇差は極端なほど短いのですが、帯にしっかり差し込んでいます。北川村の中岡慎太郎館所蔵の龍馬の肖像画でも中岡の例でも、あるいは間崎滄浪(まさき・そうろう)の場合も、脇差はみんな帯に差し込む形に描かれています。しかし、桂浜の龍馬像の元になった写真では、龍馬は勝海舟の脇指より短いものを袴(はかま)の紐(ひも)に差し込んでいるだけです。まるで脇指全体の様子を誇示しているかのようです。龍馬の「遊び心」が感じられます。なお、桂浜の龍馬像は脇指を帯に差し込む形につくりかえられていますが、当館正面玄関に建つ龍馬像(右)は写真通りになっています。