大野充彦『龍馬の小箱』(20)
幕末における米価変動


龍馬は天保6年(1835)、高知城下の上町(かみまち)に生まれました。龍馬はいったい、いくらぐらいのお米を食べていたのでしょうか。ここでそれをはっきり申し上げられれば、きっと読者の皆様はそれを足がかりにいろいろ楽しい「歴史の旅」に出発なさるのでしょうが、実のところ龍馬が食べていたお米の値段ははっきり分かりません。それがすぐ分かるほど歴史の資料は便利にはできてはおりません。たとえば、現在は同じスーパーでも値段の違うお米をいろいろ売っていますし、私はいくらのお米を買ってどれくらい食べているか、そんなことはいちいち記録していませんから、100年後、200年後の人々は私の食費を正確に言い当てることなぞできません。こんなたとえ話を持ち出せば、歴史の資料からは何でも簡単に思い通りの答えが引き出せるものでないこと、皆様にご了解いただけると思います。このコーナーでは、せめて幕末のお米の値段がどのように変化していったのか、その点だけをはっきりさせてみたいと思います。

私は昨日、近所のスーパーマーケットまで出向き、お米の値段を調べてきました。棚には安いお米、銘柄米、いろいろ並んでいましたが、8%の消費税込みで1㎏500円前後でした。知り合いの方々は、「うちではもっと安いのを食べてます」とおっしゃっていましたが、計算をしやすくするため、ここでは1㎏500円で話を進めていきます。

土佐山内家宝物資料館から刊行された『山内家史料』と呼ばれる浩瀚(こうかん)な史料集は、大正~昭和前期に編纂された良質のものですが、残念なことに幕末期部分の原稿は過半が戦時下に焼失してしまいましたから、幕末のお米の「公定価格」はその一部しか判明しません。なお、関連史料に時々、「平等相場」という用語を見かけますが、「ならしそうば」と読むこの用語は、平等=平均と解釈することもできますが、土佐領内の米価平均値を毎年算出していたとは思えませんから、これぐらいで売買させたいという支配者の思いがこもった「公定価格」と解釈しておきました。

弘化4年(1847)といいますと、龍馬が13歳になる年です。翌年の龍馬は日根野(ひねの)道場で武術修行をはじめることになりますから、育ち盛り、食べ盛りの時期です。『山内家史料』で確認できる弘化4年の米価は、吉米(きちまい)1石(こく)が銀112匁(もんめ)、太米(たいまい)1石が110匁だったようです。龍馬17歳の嘉永4年(1851)の米価は、吉米1石が銀121匁、太米1石119匁と記録に残されています。龍馬が24歳で「北辰一刀流長刀兵法目録」を江戸で千葉定吉(ちば・さだきち)より伝授される安政5年(1858)の米価は、吉米1石が銀133匁です。太米の記録は見当たりませんでした。

かつての土佐では吉米という上質米と、水害に強い太米と呼ばれていたお米がそれぞれの条件に適した場所で栽培されていました。太米は風味という点で吉米に劣っていましたから、前項のように少し値段が安かったわけです。今回は煩雑さを避けるため、現在もわれわれが食べている吉米の価格だけを取り扱います。龍馬が13歳の時には吉米1石が銀112匁だったのに、その後徐々に値上がりしていき、龍馬が24歳の時は133匁になっていました。約1.2倍になっていたのです。

石は体積の単位で、お米1石は10斗(と)、つまり100升(しょう)です。質量の単位に置き換えると150㎏になります。米俵を肩まで担ぎ上げるにはなかなか力が要ります。私は高校時代、米俵の担ぎ上げに挑戦しました。胸のあたりまで持ち上げることはできましたが、肩に担ぐことは何度試してもできませんでした。兄や父は「よいしょ」という掛け声とともに肩まで担ぎ上げました。米俵は初期の加賀藩など例外を除けば、1俵4斗入りで60㎏あったのです。

1石は2.5俵ですから、60㎏に2.5を乗ずれば150㎏となります。逆に、お米1㎏は1石の150分の1の重さになります。龍馬が13歳の時、吉米1石が銀112匁だったといっても、当時の銀の値打ちがどうなっていたのか、その点を明確化するのは至難の業です。ですから、今回は現在のお米の値段を1㎏500円と考えて150を乗じ、龍馬13歳の時のお米は1石7万5000円だったと仮定します(1升は1石の100分の1ですから、1升は750円だったとしておきます)。つまり、本稿はあくまでも作業仮説だと考えていただきたいのです。

龍馬24歳のお米は、彼が13歳の時を1石7万5000円と仮定し、そしてこのコーナー第4項で算出した1.2倍という米価上昇率を乗じますと1石9万円だったことになります。1㎏単位で買ったとしたら、1㎏600円に値上げされていたことになります。こんな調子で以後の変動も追いかけてみたいのですが、『山内家史料』には残念なことに同種の記録が欠けています。以後は『真覚寺日記』という、現在も土佐市宇佐(うさ)にある浄土真宗寺院の僧侶が幕末の様子を書き残した日記で確認することにします。

『真覚寺日記』には安政元年(1854)11月5日に発生した大地震によるさまざまな混乱ぶりを活写していますが、漁村は不漁が続くとお米の値段が上がるという特殊な地域事情があります。とはいえ、万延2年(1861)1月10日の日記は「土佐でも米価はますます高くなり、2匁前後の相場になっている」(現代語訳)と述べており、漁獲量で左右される一漁村の米価変動が記されていたわけではありません。2匁というのは1升の相場です。1石では200匁です。龍馬13歳の時の米価は1石112匁でした。土佐勤王党に加盟した27歳の龍馬は、1.8倍に値上がりしたお米を食べていたことになります。1㎏を500円とした作業仮説でいえば、1㎏が900円になったことになります。

紙幅の都合がありますので、この項では『真覚寺日記』の記載に基づいた一覧表を示すことにします。各行末の数字は弘化4年の米価を1として算出した米価上昇率です。

  • 元治元年 1升3匁以上 龍馬30歳 2.7倍
  • 慶応元年 1升5.7匁 龍馬31歳 5.1倍
  • 慶応2年 1升12匁 龍馬32歳 10.7倍
  • 慶応3年 1升16匁 龍馬33歳 14.3倍
  • 明治元年 1升12.5匁 龍馬死後 11.2倍

龍馬13歳の時の米価が1㎏500円だったと仮定すると、33歳の龍馬は1㎏7150円もしたお米を食べていたことになります。『真覚寺日記』は日雇い大工の日当が元治元年(1864)、約6匁になったと嘆くように書いています。住職の立場からすれば、お寺のどこかを修理する際、大工に高い賃金は支払いたくなかったはずです。でも、お米は1升3匁以上だったわけですから、その年の大工は1日働いても2升ほどしかお米が買えなかったことになります。人間の生活は主食だけ買っていればそれで済むというものではありません。幕末の諸物価の高騰は社会の大混乱を招いたことでしょう。民衆の生活は現在のわれわれが想像する以上に苦しかったと思います。『真覚寺日記』は明治元年で終わっていますが、日記の巻末近くには燈油も酒も米も値が下がった、と書かれています。明治の夜明けは、幕末の狂乱物価を一程度鎮静化させたようです。