大野充彦『龍馬の小箱』(23)
火縄銃と洋式銃③


平成25年のNHK大河ドラマ「八重の桜」(主演・綾瀬はるか)の主人公・八重が会津(あいづ)戦争で使っていたものはスペンサー7連発銃だったと思います。幕末に流通した各種洋式銃のうち、ゲベール銃は高島秋帆(たかしま・しゅうはん)がオランダから輸入して以降も改良がなされましたが、戊辰戦争においては「時代遅れ」の銃でした。ですから、値崩れを起こし4両程度で売買されていたに過ぎません。当時もてはやされたのは、ミニエー銃やスペンサー銃でした。ミニエー銃は18両、スペンサー銃は28両で取り引きされたといわれています。高額な洋式銃の購入は幕府や諸藩の財政を圧迫し、そのツケは当然のように民衆にまわっていきました。銃砲の歴史の背景には民衆の生活苦があったこと、それを忘れるわけにはいきません。

幕末に大量輸入されたゲベール銃は、弾丸と火薬を紙に包んだものを使用していましたから、旧来の火縄銃とは決定的に違うのですが、弾丸は球状ですし、銃身にライフルが刻まれていたわけではありませんでした。ライフルというのは、銃身内側に刻まれた螺旋状(らせんじょう)の溝のことで、弾丸はライフルに沿って回転しながら発射されますから、弾道は安定し(独楽に回転を与えると立ってまわる、あの原理と同じです)、飛距離も延び、命中精度も高まることになります。ライフル式になると、弾丸は球状から紡錘形(ぼうすいけい)へと変化します。

1846年に開発された当初のミニエー銃は、依然として先込め式でしたが、のちには弾丸の装填(そうてん)を済ませて雷管をセットする、といった方式に改良され、発火薬の先込めが克服されました。ミニエー銃はライフル銃でもありましたから、命中率も高まっていました。有効射程は前回紹介しましたマスケット銃の5倍以上あったのではないでしょうか。諸藩が競い合って買い求めた理由もよく分かります。戊辰戦争の主力銃といわれたエンフィールド銃はミニエー銃の一種です。

1860年に考案されたスペンサー銃は元込め式の連発銃でしたから、画期的な銃でした。アメリカの「西部劇」でお馴染みのライフル銃と同じく、引き金とは別に付いているレバーを下に引くと、空(から)の薬莢(やっきょう)が取り除かれ、次の弾が装填(そうてん)されるのです。武器商人によって日本に持ち込まれた洋式銃の多くは、アメリカの南北戦争が終わって(南軍が1865年に降伏して)不要になった品だったのですが、スペンサー銃は最新式のために高値が付いていましたから、戊辰戦争ではさほど多く使用されたわけではありません。

日本でテレビが普及し始めた頃、白黒のアメリカ映画がよく放映されていました。私は今年、63歳になりますが、「テレビっ子」でしたから、「西部劇」をよく観たものです。「西部劇」のほとんどはアメリカの西部開拓時代を描いていました。アメリカの歴史では南北戦争前後、日本では幕末維新期にそれぞれ該当します。そんなことはテレビを観ていた少年時代の私に分かるはずはありませんでしたが、1860年代から1890年代のわが国では、火縄銃(和式)から洋式銃に軍隊の装備が一変することになります。

土佐では海防という、緊急にして重大な課題もあって、伝統的な和式銃の修練が盛んでした。銃砲が藩庁から貸し与えられたことも多かったのですが、相互扶助の伝統的な民間組織だった「頼母子講(たのもしこう)」が目的を鉄砲購入に特化され、その名も「鉄砲講(てっぽうこう)」という「講」が結ばれ、その拠出金で鉄砲を独自に購入した郷士(ごうし)たちもいました。

ペリーの最初の浦賀来航は嘉永6年(1853)のことでしたが、土佐藩ではその翌年に「民兵定(みんぺいさだめ)」というものが告示されました。それによれば、庄屋をはじめとする村役人の子弟や庶民にいたるまで、ほとんどの階層から民兵を募ることになったのです。龍馬が神戸海軍操練所の設立のために奔走していた文久3年(1863)の土佐では、郷士や民兵の混成部隊が海岸要地に配備されていました。現在に伝わっている隊員の数は、高岡郡242名、吾川・長岡両郡123名、香美郡92名、安芸郡478名です(他郡は不詳)。

各地の村人が砲術修行を望むようになったとしても、人には生まれ持った技量というものがあります。また、封建制という厚い壁もありました。土佐国内に門人が多かった「荻野流」という和式砲術の流派では、技量不足の者は破門を宣告されました。「他流」の習得を望む者が出た場合は門人帳から除去されました。流派内で打ち方を変える際には、新しい打ち方を図面にしたため、藩庁に届けねばなりませんでした。試し打ちの申告も義務化されていました。「他流」の中には当然、龍馬兄弟のような西洋流砲術があったはずです。「荻野流」に限らず、伝統的な「流派」とか「家芸」といわれるものは次第に時代遅れとなり、新しい時代の足かせになっていきます。

土佐藩軍制上の画期は、先ほど触れた民兵制度の本格的な展開と、慶応3年(1867)の新銃隊編成でした。とりわけ洋式銃で装備された新銃隊創出の意義は大きかったと思います。かつての砲術諸流派は解体・一掃され、新しい指揮系統が出来上がったからです。実質的な隊長・板垣退助(いたがき・たいすけ)の権限は絶大だったと思います。彼が率いた土佐藩兵は会津戦争で大活躍することになります。