大野充彦『龍馬の小箱』(25)
はりまや橋


誰の言葉だったか、記憶力の悪い私はすっかり忘れてしまいました。言葉も正確かどうか自信がありません。「人間は生まれ故郷の地名を背負って歩く」。たしか、こんな言葉だったと思います。「はりまや橋」は、播磨(現在の兵庫県)出身の商人・播磨屋宗徳(はりまや・そうとく)が私費で架けた橋ゆえにその名が今に残っています。「はりまや橋」や架設者・播磨屋宗徳の名に接するたび、私は「人間は生まれ故郷の地名を背負って歩く」という言葉を思い出すのです。

播磨屋宗徳は江戸初期の、高知城下を代表する豪商でした。播磨屋という屋号を持つ店の南には堀があり、堀向こうには櫃屋(ひつや)という、これまた城下の豪商の店がありました。堀が横たわっているために往来が不便で、播磨屋宗徳が橋を私費で架けたわけです。当時の橋は、「高知風土記」という江戸時代の地誌によれば、長さ16間(けん)=約29メートル、幅2間=約3.6メートルだったようです。

高知城の東方には、武士の居住区だった廓中(かちゅう)と、御用人(ごようにん)とか足軽(あしがる)などの下層武士や、郷士(ごうし)、商人などが住んでいた下町(しもまち)を仕切る縦堀(たてぼり)がありました。その堀の真ん中ほどから東方の浦戸(うらど)湾にまで堀川が流れていました。「はりまや橋」はこの堀川に架けられたわけです。高知城下の必要物資は、南側の鏡川と、それとほぼ平行する北側の堀川がそれぞれ浦戸湾に通じていましたから、両川によって運び込まれていました。

堀川は三ツ頭(みつがしら)堀とも呼ばれたことがあったようです。三ツ頭は現在の鏡川大橋の北詰の地名で、江戸時代には高知城下の「三番所」のひとつが置かれていたところです。高知城下の北東端には「山田橋(やまだばし)番所」、西南端には「思案橋(しあんばし)番所」が置かれ、それぞれ城下の出入りがチェックされていました。「三ツ頭番所」は浦戸湾を出入りする人や物資を監視する番所でした。龍馬も脱藩時を除けば、「三番所」を出入りしていたはずです。

堀川は浦戸湾に通じ、船の往来がありましたから、その中ほどに架けられた「はりまや橋」は次第に人が多く集まるようになり、江戸後期には橋の上で細工物や菓子など が小売りされるようになっていきました。江戸初期の橋の幅は2間=約3.6メートル、とすでに紹介しましたが、橋の上に小店が並ぶようになった段階の橋幅は、通行人が行き来する中央部だけでも3間=約5.5メートルあったといわれています。

江戸後期の土佐を代表する文人(ぶんじん)・楠瀬大枝(くすのせ・おおえ)は、仲間とともに「はりまや橋」で月見をしたことがあったようです。彼らは蒸し暑い夏の夜、「はりまや橋」の上で涼をとり、「橋の上に/ならへる軒の/つまことに/さし入月の/影ぞ涼しき」などと歌ったのです。「橋の上に軒を連ねるように並んでいた小店ごとに、月の光がさし込んでいる影が何とも涼しげだ」とでも解釈すればよいでしょうか。

森広定(もり・ひろさだ)という土佐藩の中級武士が残した日記の明和9年(1772)11月3日の記述を現代語訳して紹介します。「先ごろ、新町の足軽の弟が大津村で往来の婦人を切り殺した。この前はその男を升形(ますがた)、山田橋、はりまや橋、本丁(ほんちょう)五丁目などで晒(さら)したが、今日打ち首になるらしい」。

升形というのは、武家居住区・廓中と、奉公人や商人たちの居住区だった上町(かみまち)を分ける縦堀があったところです。山田橋は先述しました「三番所」が置かれていたところで、本丁五丁目には思案橋番所という、これまた「三番所」のひとつがあった場所を指しています。いずれも人通りの多いところですから、晒し刑にするには(言葉は悪いですが)格好の場所だったのです。森広定は、「はりまや橋」がそんな晒し刑場のひとつだったことを今に伝えているのです。

竹林寺の僧・純信(じゅんしん)は、20歳も年下の鋳掛屋(いかけや)の娘・お馬と恋仲になり、龍馬が21歳になる年の安政2年(1855)、謹慎処分を受けていたにもかかわらず、お馬と一緒に土佐国外に出奔しました。以上は、「おかしな事やな播磨屋橋で坊さん簪(かんざし)買うを見た」とヨサコイ節に歌われた僧侶の話です。実話なのです。

今のJR高知駅は大正13年(1924)に出来たのが始まりですが、今も昔も高知駅から南へ700メートルほど歩いたところに「はりまや橋」はあります。高知駅開業の翌年(大正14年)には橋の幅が18メートルに改修されます。高知の路面電車は、明治後期の段階では「はりまや橋」を通らず、堀詰(ほりづめ)から南に下って潮江(うしおえ)橋北詰に出ていました。現在のように「はりまや橋」で東西南北の大通りが交差する原型は、高知駅と桟橋(さんばし)を「はりまや橋」を通過する形で直結させる昭和3年(1928)の大工事、つまり「はりまや橋」の幅が18メートルに改修されるなど一連の道路工事で出来上がったのです。戦後はさらに電車通りが拡幅され、36メートルになります。明治初期までの「はりまや橋」周辺の住民は、夕涼みをしながら小道を隔てて世間話をしていたとのこと。龍馬が今の「はりまや橋」を見たら、さぞかし驚くことでしょう。