大野充彦『龍馬の小箱』(26)
いろは丸沈没


龍馬は海の男でした。師と仰いだ勝海舟(かつ・かいしゅう)が元治元年(1864)10月に失脚し、神戸海軍操練所が宙に浮いてしまうと、活動の拠点を長崎に移し、亀山社中(かめやま・しゃちゅう)の同志と新たな出発を誓うのです。ただ、慶応2年(1866)7月28日付、三吉慎蔵(みよし・しんぞう)宛ての龍馬書状を見ますと、乗り回す船がなく、水夫たちに泣く泣く「いとま」を出した、と述べている箇所があり、亀山社中は苦境に陥っていた一時期があったようです。しかし、立ち去る者は数名に過ぎず、同じ書状で龍馬は、伊予(現在の愛媛県)の大洲(おおず)藩から接触があり、同志数名を派遣することにした、とも書いています。そんな経緯があってか、龍馬は大洲藩の持ち船「いろは丸」を、1航海(15日)500両で借り受けることになります。「いろは丸」は今風に表現すればチャーター船ということになるのですが、同船は慶応3年(1867)4月19日(龍馬33歳)、積み荷を満載して上方を目指すことになります。海援隊の正式発足まもない頃で、「いろは丸」の運用は海援隊の初仕事になります。指揮した龍馬の心境はいかばかりだったか、想像するだけでも私の胸は熱くなってきます。

「いろは丸」は最初、薩摩藩が購入したのですが、薩摩藩が持ち船を大型船に切り替えようとし、オランダ商人・ボードウィンに売却、それを龍馬たちが斡旋して大洲藩に買い取らせた、という経緯がありました。「いろは丸」と命名したのは龍馬だったようです。薩摩藩の持ち船だった頃は「安行丸(あんこうまる)」という名でした。積載量160トンの小型蒸気船でしたが、諸藩に売りさばく鉄砲や弾薬を満載して長崎を出航したのです。

「いろは丸」が長崎を出航し、瀬戸内海を東南方向に航行していた時、東から(逆方向から)長崎をめざしていた蒸気船が右に船体を傾けつつ接近してきたので、「いろは丸」は急いで左に舵をとったのです。しかし、先方の蒸気船は船首から「いろは丸」の右舷に衝突しました。場所は、現在の香川県三豊(みとよ)市北西部に位置する荘内(しょうない)半島の沖合でした。慶応3年(1867)4月23日午後11時頃のことです。

荘内半島は瀬戸内海に大きく突き出ており、浦島太郎伝説で有名なところです。衝突現場を中国地方側からみれば、岡山県の最南端に位置する六島(むしま)という、周囲4キロほどの小島の南方ということにもなります。六島は横溝正史(よこみぞ・せいし)原作の映画「獄門島」がロケをおこなったところとして知られています。いずれにせよ、「いろは丸」が海難事故に遭った海域は、いまでも潮流が速い海峡として有名なところです。

夜中に起きたこの事故は、「いろは丸」の蒸気室が直撃されるような衝突だったようです。煙突とメインマストが倒れた時の衝撃もすごく、まるで「雷」が落ちたような音が響いたと記録されています。「いろは丸」の船内には海水が流れ込み、船首が沈みはじめます。当番士官の佐柳高次(さなぎ・こうじ)は甲板の上から、幾度となく先方の乗員に呼びかけたのですが、まったく応答がなかったといいます。彼の船は、一度後退したのですが、操作を誤り、再び「いろは丸」に衝突しました。

佐柳が先方の船に乗り移った時、20名ほどの乗組員が甲板にいたにもかかわらず、誰一人として船籍を告げませんでした。龍馬らが乗り移り、先方の船長・高柳楠之助(たかやなぎ・くすのすけ)に会って初めて紀州藩の軍艦だということが分かります。名を「明光丸(「めいこうまる」、「みょうこうまる」の二様の読み方があります)」といい、積載量887トンを誇る大型蒸気船でした。

事後の交渉は鞆ノ津(とものつ)でおこなうことになりました。問題は自力航行できない「いろは丸」です。積み荷を「明光丸」に移そうとしたのですが、「明光丸」の運航が上手くいかず、鞆まで曳航(えいこう)してもらうことになりました。ところが、その途中、「いろは丸」は宇治(うじ)島沖合で積み荷もろとも海に沈んでしまうのです。ただ、「いろは丸」の士官3名は「紅白紅の旗章」、つまり二曳(にびき)と呼ばれている海援隊の隊旗をみごと護ったと、「海援隊日史(かいえんたいにっし)」は誇らしく述べています。

鞆では6日間にわたって賠償交渉がおこなわれましたが、長崎に急ぎの任務があった「明光丸」一行が長崎にいくことになったので、談判は5月15日から長崎で再開、となります。交渉中に両船の航海日誌を見せ合っても、衝突前の船の進行方向が食い違っていたといいますし、蒸気船同士の衝突は日本初のことで、海難事故の処理に関しては参考にすべき前例がなかったこともあって、お互いの主張は平行線をたどりました。ところが22日(23日とする説もあります)、後藤象二郎が談判に列席し、紀州藩勘定奉行・茂田一次郎(しげた・かずじろう)を相手に、「明光丸」の非を一方的に責めまくります。紀州藩側は土佐藩との直接交渉を嫌って、薩摩藩の五代厚友(ごだい・ともあつ)に調停役を依頼します。

龍馬は「才谷屋梅太郎」の変名で慶応3年(1867)5月29日、越前(現在の福井県)出身の海援隊員の小谷耕蔵(おだに・こうぞう)と渡辺剛八(わたなべ・ごうはち)に宛てた手紙を書いています。龍馬は、「薩摩藩との関係もあり、五代友厚に交渉事を任せていたが、今日になって紀州藩の船長が後藤象二郎を訪れ、謝罪したので許すことにした。積み荷のほか、水夫たちの持ち物に至るまで、すべてを弁償すると船長が紀州藩側の意向を伝えた」と報告しています。龍馬たちは全面的な勝利を勝ち取ったのです。

龍馬たちは、当時の国際法である「万国公法」を準用したり、イギリス軍人を味方に引き入れたり、時には恫喝(どうかつ)さえもして、御三家の紀州藩55万石相手に8万両以上の賠償金を獲得することに成功しました(のち、7万両に減額されました)。世間では紀州藩相手に巨額の賠償金を手に入れた海援隊の存在を注目するようになります。ただ、この一連の談判の背景を考えますと、倒幕に向けた動きがはじまっていたことを忘れることはできません。政局が薩長土を中心に動き出していましたから、御三家の紀州藩としては、対立の新たな「火種」を作るのは得策でないと判断したのかもしれません。

宇治島は現在の広島県最東端に位置し、「いろは丸」はいまもその沖合の海底20メートルに眠っています。最初の談判がおこなわれた現在の福山市鞆(とも)町には「いろは丸展示館」が平成元年(1989)に開設され、沈没時のジオラマや同船から引き揚げられた陶器などが展示されています。ただ、積み荷の銃400挺はまだ発見されていません。