大野充彦『龍馬の小箱』(33)
土佐藩の家臣団をめぐって②


家臣団主君への絶対服従を誓約するという事例では、豊臣秀吉が西国大名を対象にした3箇条の誓詞(せいし)、徳川家康による武家諸法度(ぶけしょはっと)、土佐藩の「御条令(ごじょうれい)」などを私は思い出しますが、これらは「公儀体制」による法度支配(はっとしはい)の好例です。「御条令」は、高知城の三の丸で、「無刀(むとう)」つまり脇差(わきざし)さえ指さず、家臣みんなが拝承する形で発令されました。現在のような主権在民の法治ではなく、上位者優位の、上からの押しつけによる「法治」だったのです。

「公儀体制」が機能しはじめると、大名は「改易(かいえき)」、「転封(てんぽう)」の憂き目を見ることがあります。「改易」は取りつぶしです。戦争で滅ぼしたわけではありません。武家諸法度に違反したなどの理由で「改易」がなされるのです。「転封」は、縁もゆかりもない所へ大名を移転させることです。山内一豊(やまうち・かつとよ)は加増の結果だったとはいえ、遠州掛川(えんしゅう・かけがわ)から土佐へ「転封」されたのです。

関ヶ原の戦いで敗れた西軍は、石田三成(いしだ・みつなり)や小西行長(こにし・ゆきなが)らは処刑されますが、毛利(もうり)氏や島津(しまづ)氏は生き延びます。長宗我部盛親(ちょうそかべ・もりちか)も生き延びます。いっぽう、勝った東軍で領知(りょうち)が数倍増えたという大名はいません。福島正則(ふくしま・まさのり)が2,2倍、黒田長政(くろだ・ながまさ)でさえ2,9倍です。山内一豊が掛川5万9000石から土佐24万石へと大出世した、とみるのは間違いです。この点は、かつて秋澤繁(あきざわ・しげる)氏が指摘なさったことです。

山内一豊は、秀吉時代に確定していた、つまり「公儀体制」によって認定されていた長宗我部氏の9万8000石の土佐を与えられたわけです。4万石ほど加増されたにすぎません。親藩(しんぱん)大名の久松(ひさまつ)氏の居城・松山城は15万石の城ですから、9万8000石のお城として建てられた高知城より大きいのは当たり前です。

「土佐24万石」というのは俗称です。これは、秀吉の命令によっておこなわれた検地の結果をしるした長宗我部地検帳(ちょうそかべ・ちけんちょう)を、1反(いったん)=1石(いっこく)で換算し、土地面積を米の生産高に似せた呼称です。

この「土佐24万石」という俗称が現在でも消えることなく使用されているのは、いったいどうしてなのでしょうか。私はこう考えます。本来の土佐の国主(こくしゅ)は長宗我部氏であり、長宗我部氏は郷土の英雄だ。「公儀体制」によって認定された「24万石」という豊かな土地柄が土佐なんだ、という一種の歴史の「読み替え」が(何時なされたかは分かりませんが)、土佐人によってなされた結果なのではないでしょうか。

関ヶ原の戦いは「天下分け目の合戦」といわれますが、私は「公儀体制」再編のための戦いだったと思います。東軍と西軍のどちらが勝っても、「公儀体制」に代わる新しい支配秩序や統治理念を打ち出すことはできなかった、と思うからです。