大野充彦『龍馬の小箱』(37)
土佐藩の家臣団をめぐって⑥


家臣団土佐藩の家臣たちは、たとえば山支配の役務を担えば、山支配の先例を勉強し、現場の状況も熟知していなければなりませんでした。土佐藩は江戸時代の前期の段階で、 長宗我部地検帳(ちょうそかべちけんちょう)による土地支配と、「元禄大定目(げんろくだいじょうもく)」による「法度支配」を確立させ、状況の変化には部分修正で対応する、という政策を貫きました。そのため、行政が細分化し、武士は次第に官僚のようになっていくのです。「公儀体制」は、戦う武士から官僚として有能な武士へと、武士の生き方を変えてしまうのです。

動物は「棲み分け」をしていると言われていますが、江戸時代の武士も、山支配、浦支配、町支配というように、自分の守備範囲を守っていくことになります。ペリーが来航し、民族危機が迫るまでは、天下国家を論じられる人材がごく一部に限られたのはこのような背景があったためです。

しかし、そのいっぽうで、武術をもって藩主に仕えた武士がいたことも事実です。私は、行政上の役務を担う武士を「役方(やくかた)」の武士と呼ぶことにしていますが、高知城下を命がけで守った武士を「番方(ばんかた)」の武士と呼び、両者を区別して考えることにしています。

私が「番方」の武士に着目したきっかけは、県立図書館が所蔵する森広定(もり・ひろさだ)の日記に出会ったことでした。広定は、8代藩主豊敷(とよのぶ)、9代豊雍(とよちか)に仕えた中級武士でした。追手門を開け閉めしたり、城内の番所に詰めたりして高知城を警固し、藩主が城外に出かける時は、真如寺(しんにょじ)でも、今は掛川(かけがわ)神社と呼ばれ、昔は神君家康を祀っていた陽貴山(ようきさん)に参詣する場合でも、常に藩主の警固をしていました。洪水の際には、追手門に集結し、いろんな対応をしていたのです。

「番方」の年間勤務日は60日前後で、しかも出勤率は60%ほどでしたから、実質は年間40日ぐらいしか働いていなかったのです。しかし、宿直がありましたし、落度があれば切腹、という仕事ですから、この程度の負担が妥当だったのかなと私は思います。

実はこの次が問題で、と言いますか、これからが私の強調したいことなのですが、「役方」の武士は純然たる官僚になってしまったかと言えば、それは違って、「番方」の武士同様、本来の武士の姿を披露することがありました。ひとつは「馭初式(のりぞめしき)」、もうひとつは「船乗初式(ふなのりぞめしき)」です。

「馭初式」も「船乗初式」も掛川以来の行事でした。「馭初式」は、「役方」「番方」問わず、本町八町(ほんまちはっちょう)を一騎駆(いっきが)けし、藩主が観閲するという、陸軍の軍事演習です。「船乗初式」は、藩主が乗った「御座船(ござぶね)」の前後を家老の船11艘が付き従うという、海軍の軍事演習でした。

土佐藩の家臣団はすべて(あくまでも正規軍のことですが)、11名の家老ごとに配属されていました。軍団が11あった、ということです。家老は、土佐藩の「役方」最高職である奉行職(ぶぎょうしょく)を務めますが、それ以外の「無役(むやく)」の家老でも、常に軍団の「大頭(おおがしら)」で有り続けたのです。

「公儀体制」は、合議制や月番交代制によって「法度支配」をおこない、専制政治を覆い隠していたのですが、本質は封建体制ですから、臨戦態勢を維持させていたのです。しかし、旧来の軍団がそのまま戊辰戦争に投入されたわけではありません。

ペリー来航を機に海岸警備の必要性が高まり、飛び道具である鉄砲や大砲の必要性が高まると、旧態依然とした武士の軍団では即応できず、民兵(みんぺい)が採用され、砲術が西洋式に切り替えられていきます。その軍制改革で中心的な役割を演じたのが板垣退助(いたがき・たいすけ)でした。

坂本龍馬は、土佐藩の船印に倣ったと私が推測している「二曳(にびき)」と呼ばれる海援隊の旗を掲げますが、彼が乗船した船は「船乗初式」で使用されたような帆船ではなく、外国から購入した蒸気船でした。

予定時間が過ぎました。喋りながら、土佐藩の概略を「公儀体制」で押し通すには無理があるな、とか、あるいは最後の例で言えば、海援隊の「二曳」は赤白赤の旗なのですが、土佐藩の船印は、史料には「中白幟(なかしろのぼり)と出てくるだけで、色が分かりません。彩色を施した「船乗初式」船団図の船印は、どうみても黒白黒なのです。という具合に、細部を確定しきれていない事例もかなりあるな、と気付きました。今後も頑張って勉強せねば、と思います。本日はご清聴、ありがとうございました。