大野充彦『龍馬の小箱』(41)
NHKが発見した龍馬の手紙④


宮地佐一郎(みやじ・さいちろう)氏は、「闘鶏絵図(とうけいえず)」や「菊酒(きくざけ)」などで知られる高知市出身の小説家ですが、1970年代の中ごろから坂本龍馬や中岡慎太郎(なかおか・しんたろう)の研究を手掛け、ついには歴史学者も瞠目(どうもく)するような業績を次々に公刊していきました。私がよく活用するのは同氏の力作『龍馬の手紙』(旺文社、1984年刊)です。同書には龍馬の手紙127通の釈文(しゃくもん)や解説が収められているほか、現存するものは写真も掲載されており、筆跡鑑定の参考としても役立ちます。【手紙】も同書と照らし合わせれば、龍馬の真筆だということが納得できるはずです。私が今回注目したいのは、同書の付録として収められている「坂本龍馬手帳摘要」です。
「坂本龍馬手帳摘要」は、宮地佐一郎氏の解説によれば、高岡郡佐川村(現佐川町)出身の土方直行(ひじかた・なおゆき)による筆写本で、龍馬の甥であり、龍馬家を継いだ坂本直(さかもと・なお)の所蔵だったものを、土方が借り受けて写し取った、というのです。

土方直行(ひじかた・なおゆき)は土佐勤王党に加わった人です。土方が「坂本龍馬手帳摘要」を手にした際の覚書(おぼえがき)の一部を、私なりに分かりやすく書き改め、次に紹介します。

  • この手帳は小さな、ありふれた横巻き形式のもの。龍馬のメモ書き風の略記である。折りに触れて龍馬が書いたものだから、判読できないような字もあるし、逆さに綴(と)じられた箇所もある。2冊とも過半は白紙で、日付けのある記事もあるけれど、日付けのないものが多く、字も乱れ、小事にこだわらなかった龍馬往年の性格を今になって垣間見たような気がする。

土方の覚書で分かることは、「坂本龍馬手帳摘要」は2冊伝存していたこと、龍馬直筆の備忘録だったことです。慶応(けいおう)元年分が1冊、「別巻」と冒頭に書かれた慶応2年のものが1冊で、土方の言うように計2冊だったわけですが、大正2年12月26日の釧路市の大火で焼失したと推定されています。

「坂本龍馬手帳摘要」1冊目(慶応元年分)の最初の部分は、「四月廿五日、坂ヲ発ス」、「五月朔、鹿兒府ニ至」、「五月十六日、鹿府ヲ発ス。時午(ひる)ヲ過グ」となっています。日も飛び、記述も極めて簡単です。龍馬はこの時期、西郷隆盛(さいごう・たかもり)らと大坂から鹿児島へ行き、鹿児島にしばらく滞留したのち、大宰府に行って三条実美(さんじょう・さねとみ)と会談するのです。薩長同盟のための下準備を始めていたのですが、そこまで読み取ることができないほど「坂本龍馬手帳摘要」の記事は簡略的です。

【手紙】は、三岡八郎(みつおか・はちろう)、のちの由利公正(ゆり・きみまさ)が龍馬に面会するために訪れた日付けを訂正しています(11月1日朝とした箇所を10月30日と書き直しています)。越前藩の取次役や大目付役の人名をしっかり書いています。龍馬の手元には、慶応元年、2年に続く3年の「坂本龍馬手帳摘要」もあったのではないでしょうか。

【手紙】は草稿ですが、草稿段階でも、清書する前にも、龍馬は自らの備忘録によって日時や対面者名を何度も再確認したはずです。【手紙】の冒頭には「越行の記」と書かれています。こんな書き方、私信では有り得ません。【手紙】は、後藤象二郎(ごとう・しょうじろう)から越前行きを依頼された龍馬の正式な復命書の草稿だったからです。

「坂本龍馬手帳摘要」は大正2年に焼失したというのですが、慶応以前のものや、慶応3年のものもあったのではないでしょうか。両年だけしか書かれなかったとは考えにくいと思います。慶応元年と2年の2冊以外、どうして釧路市の坂本家に伝存してなかったのでしょうか。謎です。龍馬の暗殺時、備忘録は誰かが奪い去ったのでしょうか。

【手紙】の宛名は当然、後藤になっています。実際には「後藤先生」となっています。龍馬は手紙の宛名に「様」を付ける例が多いのですが、時には「大兄」や「大人」、「老台」、「老兄」、「先生」といった敬称を付けた例があります。

長州藩の桂小五郎(かつら・こごろう)や久保松太郎(くぼ・まつたろう)、三吉慎蔵(みよし・しんぞう)、下関の豪商・伊藤助太夫(いとう・すけだゆう)、土佐藩の溝渕廣之丞(みぞぶち・ひろのじょう)、佐佐木高行(ささき・たかゆき)などには「先生」を付ける場合がありました。ただ、多くの場合、それは本文限りのことで、包み紙の宛名は「様」になっています。

【手紙】を受け取るはずだった後藤は、龍馬に越前行きを頼んだあと、土佐に帰っていました。容堂(ようどう)らに大政奉還が実現したことを報告し、土佐藩が今後どうすべきかを協議するためだった、と思われます。

【手紙】には、越前行きのあらましが述べられた後、「11月5日に京都に帰り、福岡孝弟(ふくおか・たかちか)参政(さんせい)に、春嶽侯(しゅんがくこう)のご返書を渡しました」と書かれています。

福岡は当時、参政(さんせい)職に就いており、京都の土佐藩邸では後藤に次ぐ重臣だった人物です。その福岡に、容堂宛ての松平春嶽の返書を渡した、ということは、かつての龍馬が、たとえば勝海舟(かつ・かしゅう)の使者を務めていた頃とか、薩長同盟締結のために奔走していた時期とは違って、龍馬が土佐藩の准藩士として公務を忠実に遂行したことを物語っているのではないでしょうか。

龍馬のこの時期の行動で注目しておかねばならないのは、洋式銃(小銃)1000挺(ちょう)を蒸気船・震天丸(てんしんまる)に載せて高知に搬入した、という事実です。土佐藩はこの小銃を正式に受領します。

龍馬が浦戸に入港したのは9月23日でした。土佐藩が京都で大政奉還を建白したのは10月3日です。龍馬は大政奉還が実現した10日後の10月24日、越前に向けて京都を出発します。何とも慌ただしく感じます。しかし、土佐藩も龍馬も、大政奉還後の薩長の出方を必死に見極めようとしていたのです。

土佐藩は、薩長の出方次第では越前藩と同一歩調をとるか、あるいは少なくとも越前藩の同意のもと、薩長と共に戦うつもりだったのでしょう。そのためには薩長に劣らない火器が必要だったのです。龍馬は新政府の樹立を願っていましたが、客観的に見ると、土佐藩の准藩士、土佐藩が支援する土佐藩の外郭団体・海援隊長という立場で動き始めていたのです。

NHKでは三岡(みつおか)に焦点を絞り、龍馬が財政通の彼を新政府で採用するように進言していたことを強調していました。【手紙】の中では実際、三岡の力量や、龍馬と三岡の会談内容までが具体的に述べられているのですから当然なのでしょうが、NHKは近年の日本の財政問題や経済の行方に対する国民の強い関心を意識して番組を企画したと思います。

龍馬は越前行きの1カ月前、携えてきた小銃1000挺を土佐藩の重臣に引き渡し、生家にも帰っています。龍馬は、かつての脱藩浪士ではなくなっているのです。海援隊長という、土佐藩の准藩士として行動していたのです。

武力討幕の方向性は固まりつつあったと思います。龍馬のことですから、人一倍それを強く感じ取っていたことでしょう。土佐に帰っている後藤に、容堂(ようどう)と板垣退助(いたがき・たいすけ)の仲が取り持てるか、そんなことを気にかけていたと思います。龍馬は新政府の構想を練っていましたが、土佐藩抜きの構想ではなかったはずです。土佐藩が薩長の後塵を拝すわけにはいかない、という強い思いがあった、と私は想像します。

最後に余談です。「幕末の三舟(さんしゅう)」のひとりである山岡鉄舟(やまおか・てっしゅう)は、江戸城開城をめぐる西郷隆盛(さいごう・たかもり)と勝海舟(かつ・かいしゅう)の会談に先立ち、静岡まで進軍していた西郷と直接交渉するため派遣された人物として有名な剣豪ですが、彼は生涯、100万点以上揮毫(きごう)したと言われています。私のような者まで鉄舟の書画を持っているのですから、今もかなりの数が残っているはずです。暇な私はある日、ネットで鉄舟の条幅(掛け軸)の値段を検索しましたが、10万円前後でした。ところが【手紙】は、NHKの番組の最後で、電光掲示板によって1500万円という金額が示されました。

龍馬の手紙の多くが博物館所蔵となっている現在、新たに競売される例は今後、ほとんどないでしょう。しかしもし、新たに龍馬の手紙が出て来たとすると、中国の「富裕層」が買うかもしれません。需要があるのに、供給がほとんどゼロだとすれば、売買価格は天井知らずです。龍馬の手紙がお金の力で海外流出したら大変です。NHKが【手紙】を1500万円と鑑定したのは、安めの金額を提示することで、龍馬の手紙がこれ以上高くならないように配慮したのだろうと、私はNHKに対し、密かに敬意を払っている次第です。
(この項、今回で終了)