大野充彦『龍馬の小箱』(42)
〇〇〇自ラ盟主ト為リ


龍馬の自筆書状は出尽くした感がありますが、このコーナーで取り上げた「越行の記」のような例もありますから、新発見の可能性は皆無、と言い切ることはできません。皆無に近い現状、といった表現が適当なのでしょう。ただ、今回取り上げる「新政府綱領」は、すでに龍馬自筆のものが2点確認されています。1点は国立国会図書館、もう1点は下関市立長府(ちょうふ)博物館にあります。ですから、本史料に限って言えば、今後同じものがどこかからか出てくる可能性は充分残されています。

従来から知られている「新政府綱領」は、NHKの大河ドラマ「龍馬伝」でも取り上げられました。私のことですから記憶がおぼつかなく、正確な引用はとても無理ですが、登場人物の誰かが「こんなもので謀(たばか)って……」と言ったように思います。記憶違いがあればよろしくご訂正いただくことを願っておき、話を先に進めていきますが、「龍馬伝」では、「新政府綱領」中の「〇〇〇自ラ盟主(めいしゅ)ト為(な)リ」という部分が大きく映し出されました。伏字が3字あるという特異な史料ですから、誰もが注目します。

「新政府綱領」という史料名は、史料引用上の都合で歴史家が命名したわけで、史料中にそんな表記があるわけではありません。平尾道雄(ひらお・みちお)氏の名著のひとつ『坂本龍馬 海援隊始末記』には、「新政府綱要八策」という名で掲載されています。中公文庫版では、「綱領」ではなく「綱要」と表記されています(同書209頁)。

平尾氏著では、「新政府綱要八策」とのタイトルに続き、本史料が全文引用されています。史料引用前の文章は、「龍馬が畢生の志とする倒幕の大業は、幕府の大政奉還によって、ひとまず内戦をさけることができた。……その後に龍馬は新政府案を同志のものと検討し、かつての『船中八策』を基案として、つぎの八策をもとめた」となっています。

平尾氏は「船中八策」に続く龍馬構想の現れとして「新政府綱領」を位置づけたため、「新政府綱要八策」と命名したのでしょうが、本史料は「第一策」、「第二策」……ではなく、「第一義」、「第二義」……となっています。松浦玲(まつうら・れい)氏はそれを重視し、本史料を「八義」と命名しました(岩波新書『坂本龍馬』178頁)。

史料名の問題はこのくらいにして、本史料の最大の特徴である「〇〇〇自ラ盟主ト為リ」の解釈に話を移します。そこでまず留意すべきは、本史料の形式です。形式上の特色として第一に目を向けなければならないのは、末尾が「慶応(けいおう)丁卯(ひのとう)十一月 坂本直柔(なおなり)」になっている点です。①干支(えと)表記がみられること、②「直柔」という実名(じつみょう)が使われていること、③宛名(あてな)がないこと、この3点の特徴は、本史料が龍馬個人の単なる覚書でないことを物語っています。

本史料は、龍馬がいろんな人間に手渡し、その場で自らの新政府構想を口頭で説明するために作成されたものです。口頭説明用に書かれたという推測を裏付ける証拠のひとつは、「第五義」から「第七義」までが要点摘記で終わっている、という点です。

本史料の「第一義」は、「天下有名ノ人材ヲ招致シ顧問ニ供フ」となっています。新政府には有能な人材を顧問に迎えるべきだと、一文として立派に成り立っている簡潔明瞭な文章が綴られています。「第八義」も同様で、「皇国(こうこく)今日ノ金銀物価ヲ外国ト平均ス」と、これまた文章としてきれいに成り立っています。しかし、「第五義」は「上下議政所」とのみ書かれ、「第六義」は「海陸軍局」、「第七義」は「親兵」とあるだけなのです。

龍馬は「第五義」から「第七義」までで、欧米のような上下二院制の国会、海軍省・陸軍省、直属軍が必要だ、と言いたかったのですが、将軍慶喜(よしのぶ)は、たとえばフランスのロッシュ公使から似たような内閣構成案をすでに聞かされていましたし、一時期はフランスからの「借款(しゃっかん)」が約束されていて、武器購入費の見通しも立っていたと言われています。

フランスの対日政策が変更され、「借款」が「絵に描いた餅」に終わると、薩摩藩と関係が深いイギリスが慶喜に接近してきます。龍馬は、イギリスが支援している薩摩藩の、実質上の指導者となっている西郷隆盛(さいごう・たかもり)と入魂で、だからこそ前年に薩長同盟を成立させているのですから、龍馬にも新政府の財源に関し、一程度の見通しができていたのでしょう。

龍馬はいったい「〇〇〇自ラ盟主ト為リ」の伏字に、誰の名を入れさせたかったのでしょうか。これが問題です。本史料は、大政奉還以後、王政復古のクーデター以前のものです。注目すべきは、「〇〇〇自ラ盟主ト為リ」の直前に、「諸侯(しょこう)会盟の日を待て云々(うんぬん)」とあり、「〇〇〇自ラ盟主ト為リ」に続いては、「此(これ)を以て朝廷に奉り、始て天下万民に公布云々」とある箇所です。

「云々」は、「これ以下は省略するけれど」という意味合いで使われています。ですから、本史料の末尾を口語訳すると、「諸侯会盟の日を待って、それから……をして、その上で〇〇〇があらためて盟主となり、〇〇〇が新政府構成案を朝廷に差し出す。朝廷の許可が得られたら、その時初めて新政府構成案を天下万民に公布するようにすべきであろう」となります。

龍馬は「朝廷」という言葉を使用していますが、彼は天皇をはじめ公卿(くぎょう)すべてを念頭に置いていたのでしょうか。「天下万民」にはどのような意味が込められていたのでしょう。今の言葉で言うところの「国民すべて」ということだったのでしょうか。私は意地悪な人間ですから、どうもこの部分は、新政府構成案の正当性を獲得するための、単なる手続き、いわば「きれいごと」を、書き加えたに過ぎない部分だと考えます。

本史料の性格規定をする際、見落としてならないのは「諸侯会盟の日を待って」という箇所です。龍馬の念頭には大政奉還以後に開催されるはずの「諸侯会盟」があったのです。龍馬は、「諸侯会盟」参加予定者あるいはその側近に、自らの構想を説くため、本史料作成を急いだのです。

龍馬は悲しいかな、薩摩藩が「薩土盟約」を無視して長州と討幕軍を結成し始めていることを知りません。木戸孝允(きど・たかよし)からは、「藩」は討幕にとっての単なる手段、といったような考え方を聞かされていましたから、挙兵を予想していたでしょう。でも、というか、だからこそ、と言い換えるべきか、龍馬は、交戦は回避された、話し合いで新政府ができる、といった一心で本史料を作り、彼なりの新政府構想をひっさげ、重要人物の屋敷を順にまわろうとしていたのです。

本史料は王政復古のクーデター以前のものですし、本文中に「朝廷に奉り」と出てきますので、〇〇〇に天皇の名が入ることはあり得ません。「諸侯会盟」参加予定の主要人物の名が念頭におかれていたはずです。

大政奉還は土佐藩の建議による、との説に立っても、龍馬が〇〇〇に「容堂公(ようどうこう)」と入れたがっていたとは思われません。身贔屓(みびいき)ということで、反感を買うだけです。となれば、大政奉還構想をいち早く表明した松平慶永(まつだいら・よしなが)の隠居名を考えていた可能性があります。つまり、〇〇〇は「春嶽公(しゅんがくこう)」です。しかし、もっとも可能性が高いのは「慶喜公」なのではないでしょうか。薩摩の「久光公(ひさみつこう)」も考えられますが、薩長のわだかまりは完全に消えていないこと、龍馬は分かっていたはずですから、やはり「慶喜公」としたかったと思います。

本史料に関する私の皮相な考察が当を得たものであれば、徳川慶喜が征夷大将軍でなくなったとしても、龍馬は、慶喜中心の政府=欧米式の連邦政府を、ゆっくり時間をかけ、軌道に乗せていくことが好ましい、と考えていたと思います。

龍馬は、長州の木戸孝允や薩摩の西郷隆盛、大久保利通(おおくぼ・としみち)のように、藩主の権限を代行するような人物ではなかったのです。彼は、土佐藩という、容堂が実権を持ち続け、後藤象二郎(ごとう・しょうじろう)も板垣退助(いたがき・たいすけ)もいまだ木戸、西郷、大久保のように成り切っていない藩の浪士に過ぎないのです。そこに龍馬の悲劇があり、偉大だった証しがあるのですが、龍馬は結局、木戸たちに「踏み台」にされてしまいます。

龍馬がもし近江屋で斬殺されず、王政復古のクーデターに接していたら、どんな行動に出ていたでしょうか。歴史学の世界では、「もし」とか「仮に」という問いかけを持ち込んでも不毛の議論を招くだけ、ということでその類いの話は忌避されがちですが、私は、榎本武揚(えのもと・たけあき)あたりと協同し、大坂湾に集結していた旧幕府艦隊を指揮するといった行動に出たかも、と想像します。

最後に余分なことを付け加えますと、討幕挙兵を薩長が具体的に計画し始めたのは大政奉還以前の8月ですから(井上勝生氏『幕末・維新』~岩波新書~150頁)、もし龍馬が大政奉還路線の延長線上で新政府構想を練り続けていたとしたら、言うまでもなく彼は薩長の敵になります。危険な人物、厄介な男、となるのです。龍馬暗殺の指示は案外、薩摩の大久保あたりから出ていたかも知れません。みなさんはどのようにお考えでしょうか。