創造広場 アクトランド

特別寄稿「龍馬の小箱」

2023年05月24日龍馬の小箱(3) 帯屋町(おびやまち)435番地

板垣退助(いたがきたいすけ)が率いた迅衝隊(じんしょうたい)のことを調べるため、戦前の『土佐史談』を調べていた時のことです。何気なく奥付(おくづけ)を見ていましたら、土佐史談会の事務所の所在地が「高知県高知市帯屋町435番地」となっていました。現在の土佐史談会の事務所は、高知城内の東詰めに位置する高知県立図書館3階にあり、住所は「高知市丸ノ内(まるのうち)1-1-10」となっています。

私が「帯屋町435番地」と印刷された『土佐史談』を見たのは第15号で、大正15年(1926)3月の出版物です。奥付にみられる土佐史談会の事務所の所在地をあらためて紹介しておきます。

 

高知県高知市帯屋町435番地(高知市役所前)  朝日活版印刷所内

 

高知の城下町は、北は江ノ口川(えのくちがわ)、南は鏡川(かがみがわ)をそれぞれ外堀に利用することで建設されました。両川に沿った東西の幹線道路は、大川筋(おおかわすじ)、追手筋(おうてすじ)、帯屋町筋(おびやまちすじ)、本町筋(ほんまちすじ)、本丁筋(ほんちょうすじ)のように、みんな「筋」が付されていました。

 

いまも帯屋町の商店街の一帯が「帯筋(おびすじ)」と呼ばれているのは江戸時代の名残です。毎年8月、よさこい祭りでは、女優の広末涼子さんが帰県し、「帯筋」の「連(れん)」に加わって踊っています。広末さんのお父さんは、「帯筋」の「ママイクコ」というお店を経営なさっています。

 

現在の帯屋町に「435番地」という長い番地は存在しませんが、戦前の帯屋町の町域は広く、升形(ますがた)の手前までありましたから、「435番地」という番地もあったわけです。高知市は昭和11年(1936)8月に町名整理、地番号の改正を実施しましたから、土佐史談会の事務所所在地の表記は、「帯屋町435番地」から「帯屋町98番地」に変更されました。事務所が移転したわけではありません。

 

昭和4年(1929)5月現在の状況が示されている「高知市県庁方面現住者名図」(高知地理学会刊)を確認しましたら、「帯屋町435番地」=「帯屋町98番地」の番地は現在の「本町(ほんまち)4丁目1」。高知市の中消防署(なかしょうぼうしょ)が位置するところでした。

 

土佐史談会は、明治45年(1912)の初夏、勤王党(きんのうとう)の存命者である三宅謙四郎/建海(みやけけんしろう/けんかい)の自宅における談話会に端を発し、旧家老・五藤(ごとう)邸での会合を経て、大正6年(1917)6月、正式に発足しました。当時は高知県史の編纂事業がすすめられており、研究成果などを発表する機関誌『土佐史談』も刊行されることになりました。第1号の発行は大正6年(1917)9月のことでした(以上は、『土佐史談』復刊第1号<通刊80号>所収の松山秀美「再刊の辞」による)。

 

土佐史談会の事務所は、上記のような経緯により、当初は県庁内の県史編纂室に置かれていました。そして、大正12年(1923)5月から高知城の懐徳館(かいとくかん)内に移り、さらに同14年(1925)1月、市役所前の朝日活版印刷所内に移転しました。ここの番地が「帯屋町435番地」だったのです。このようにして土佐史談会の事務所は、現在の中消防署がある地で終戦を迎えることになります。なお、朝日活版印刷所という会社については未確認です。どなたか、ご教示いただけましたら幸いです。

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