企画展「坂本龍馬の生きた時代」の内容紹介〈その4〉

 

企画展「 坂本龍馬の生きた時代 」は

昨年10月18日に終了いたしました

 

多くの方のご来館

  誠にありがとうございました

 

期間が開きましたが、

今回のブログでは展示していた資料

『 太平記評判秘伝理尽鈔 』(以下『 理尽鈔 』)

を引き続き紹介します

 

「理尽鈔」展示風景

 

 

以前のブログはこちらからご覧ください⇩

 

1⃣ 企画展「 坂本龍馬の生きた時代 」紹介 ~その1~

2020年4月25日

 
2⃣ 企画展「 坂本龍馬の生きた時代 」紹介 ~その2~

2020年6月21日

 
3⃣ 企画展「坂本龍馬の生きた時代」の内容紹介〈その3〉

2021年2月9日

 

 

出版されることにより

多くの人に親しまれるようになった

『 理尽鈔 』ですが、

幕末を生きた坂本龍馬もこの『 理尽鈔 』を

読んだことがあったのでしょうか?

 

 

残念ながら、

坂本龍馬が『 理尽鈔 』を読んだという

明確な証拠はありません

 

 

しかし、

『 理尽鈔 』の元ネタとなった

『 太平記 』の内容を

踏まえた手紙を書いています

 

龍馬は元治元(1864)年の姉・乙女(おとめ)への手紙

 (ねぶともよくよくはれずてハ…」で有名)で、

『 太平記 』でも取り上げられる

稲村ケ崎( いなむらがさき、現在の神奈川県鎌倉市 

の戦いに関する逸話に触れています

 

元弘3(1333)年、

武将の新田義貞(にったよしさだ)は

鎌倉幕府を打倒するため挙兵しましたが、

その道中の稲村ケ崎という岬

進軍を阻まれました

 

道が狭く、大人数での通行が難しかったのです

 

潮が引くことを神仏に祈って

義貞が剣を海中へ投げ入れると、

祈りが通じたのか潮が引いて、

鎌倉にたどり着くことができました

 

龍馬はこの逸話を踏まえて、

 

「 につただゝつね(新田義貞の誤り)の

  太刀おさめてしほ(潮)の引しも、

  しほ時をしりての事なり 」

 

と手紙に書いています

 

龍馬義貞が神仏に祈った結果、

潮が引いたのだという

『 太平記 』の見解とは違い、

義貞はその日が干潮の日であることを

事前に知りえていたと考えています

 

龍馬はこの手紙で

 

「 世の中の動きを敏感に察知し、

  時期に即した行動が大事である 」

 

ということを伝えたかったのだと

いわれています

 

『 太平記 』はこのような

龍馬の人生観に関わる話題に登場しており、

龍馬にとって身近な存在であったのでしょう

 

 

❏このアクトランドのブログ、

応援よろしくお願いしますね☆

「 応援してもいいよ 」って方、

 ↓下のボタンをぽちっとしてください(^_-)-☆
banner[1]

 

 

❏他にもSNSをやっているので、
↓「いいね」やフォローお願いします(^^♪

twitter  instagram  Facebook

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です